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2002,09,19 |
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投稿者:Nikolaus 24歳 |
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「ハーフかダブル、どっちがいい?」
私は日本国籍の父とドイツ国籍の母の間に生まれた、いわゆる「ハーフ」です。いままで自己紹介するときは「ハーフです」と言って来ました。
5年ほど前、初めて「ダブル」という言葉を聞きました。しかし、私はこの「ダブル」という言葉が好きになれません。「二つの文化を共有するのだからダブルと呼ぼう」ということらしいのですが、私は二つの国の文化を完全に共有しているわけではありませんし、ドイツ語もそれほどうまくありません、出来ないと言ってもいいくらいです。私はドイツのこともほとんど知りません。母親からドイツの話を聞かされたりするのですが、それは20年以上前のドイツで今のドイツではありません。
「ダブル」であるということはバイリンガルであることを求められているようで、どこか窮屈です。私は音の響きからしても「ダブル」より「ハーフ」の方が好きです。「ハーフ」は英語で半分という意味ですが、私はもとの意味がなんでもかまいません。この言葉は自己紹介するのに便利なので、これからも使い続けるつもりです。
「ハーフという言葉は半人前という悪い意味があるから使わないほうがいい」という意見がありますが、私は「ハーフ」を悪い意味だとは思っていません。「ハーフ」を悪い意味に取るのは、もとの英語の意味にこだわり過ぎているからだと思います。「ハーフ」と呼ばれても私は二つの文化を(不完全ながら)知っている存在です。「ダブル」と言い換える必要はないと思っています。
将来、もしかしたら「ハーフ」という言葉が使われなくなるときが来るかもしれません。「ハーフ」が当たり前の存在になり、「ハーフ」であるかどうかなんて意味を持たない時が来るのではないでしょうか?
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2002,09,28 |
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投稿者:Nikolaus 24歳 |
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「ハーフもダブルも同じこと!」
「ハーフという言葉は半人前という意味があるから使わないほうがいい。二つの文化を共有しているという意味でこれからはダブルという呼び方に変えよう!」
「ダブル」が使われるようになったのは、このような意見があったからだと考えています。そして、この意見を支持する人たちは「ハーフ」と呼ばれている私のような人のことを「ダブル」と呼ぶようにしているみたいです。
しかし、この意見は大事なことを見落としていると思いませんか?「ハーフ」という呼び方の問題は言葉の意味だけなのでしょうか?
「ハーフ」と「ダブル」(さらに最近では「ミックス」という呼び方まで出てきているようですが)の違いは呼び方だけで、結局どの言葉も対象は同じです。そんな言葉をどうするかということよりも、もっと大事なことがあるのではないでしょうか?
大事なことは「ハーフ(ダブル)」として特別扱いされる現状をどうするかを考えることです。それなしに「ハーフ」から「ダブル」へと単純に言い換えるのでは今までと何も変わらないと思います。「ハーフ」という言葉も「ダブル」という言葉も特別扱いするための言葉に違いはないのですから、必要なのは「特別扱いされない・しないように周囲をどう説得するか」を考えることだと思います。
もし仮に「ダブル」という言葉が定着したとしても、いずれ「ダブルは良くないから別の言葉に言い換えよう」ということが言われる時が来るのではないでしょうか?「ダブルかハーフのどっちがいいか?」という“言葉の問題”を話し合うより、「どうすれば周囲の人に特別扱いされないようになるのか」を考えることの方が大切なことだと思います。 |
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2002,10,23 |
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投稿者:Nikolaus 24歳 |
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「○○系日本人」
「ハーフもだめでダブルもだめなら、彼・彼女達のことをなんて呼べばいいのか?」
私の考えを読むとそのような疑問を持つと思います。実際には「ハーフ」で良いと言う人がいる一方で「ダブル」が良いと言う人もいます。さらにこれからは「ミックス」が良いと言う人たちも現れるかもしれません。けど、どんなに呼び方を変えても、「ハーフ(ダブル)」としてひとまとめにしている点ではどの言葉も同じです。
「あいのこ」「混血児」「ハーフ」「ダブル」「ミックス」など今まで私のような存在を理解するために様々な言葉が使われてきました。しかし、これは「ハーフ」などと呼ばれる本人達が選んだものではありません。親も含めた周りの人達が勝手にそう呼んでいるだけなのです。
実際、私のような存在は全員同じではありません。お父さんが他国人だったりお母さんが他国人だったりしますし、その国籍も韓国・北朝鮮や中国、アメリカやイギリス、ドイツやブラジルだったりと様々です。「ハーフ」や「ダブル」としてひとまとめにするのは無理があるのではないでしょうか?
「日本は同質性社会でよくない、もっと多様な価値観を認めないといけない」と言う人でも「ダブル」という言葉をなんの疑問も抱かずに使っています。私たちが多様な存在だということを忘れて「ダブル」という言葉を使う。どこか矛盾しているのではないでしょうか?本当に様々な出自をもった存在を認め合おうと言うのなら、この「ハーフ(ダブル)」という概念を取り払うことの方が大切なのではないでしょうか?
それまでの呼び方に慣れていると、簡単に別の呼ばれ方に慣れることはできません。「ダブル」でなく「ハーフ」と呼ばれたい人がいる一方で、「ハーフ」でなく「ダブル」と呼ばれたい人がいます。「ではどう呼べばいいのか?」、これからは「〇〇系日本人」として、それぞれを区別して呼べばいいのではないでしょうか?
「ハーフ(ダブル)」としてひとまとめにするのでなく、それぞれ個別の存在として考える。一人一人が違うことを理解し、そしてその違いを尊重する。それが一番大切なことではないのでしょうか? |
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2002,12,24 |
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投稿者:Nikolaus 24歳 |
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「特別扱い」
前に「ハーフはいいなぁ」と言って来た人に「なんで?」とその理由を尋ねると「ハーフはTVに出られるから」と言われたことがあります。ここ何年かで「ハーフ」の子供がTVや雑誌のモデルとして出てくることが以前より多くなったと思います。
3,4歳の頃、私にもモデルの話が来たそうです。どういったモデルかは知りませんが、私の母はその話を断りました。断った理由は、子供を“見世物”にするが嫌だったからだそうです。
どういう経緯でモデルの話が来たのか知りませんが、モデルや芸能界に興味がない母のことですから、モデルの依頼は人伝いに来たのだと思います。私はこの話を聞いて「やっぱり」って思いました。「ハーフ」がモデルとして使われることが多いと知っていたので「自分にも来ていたのかぁ」と思いました。
どうしてこんなにも「ハーフ」の子供が出るようになったのかとても不思議でした。子供を街中でスカウトするなんて簡単に出来るはずがないのに「なぜ?」と思いました。気になって調べてみると、芸能事務所の世界には「ハーフ」ならほとんどフリーパスで登録できるという特別な事情があるようで、「ハーフ」の子供がよくTVに出るのは親が芸能事務所に登録しているからでもあるようです。
私は子供を事務所に登録する親たちの行動をとても疑問に思います。「ハーフ」の子供に限らず、自分の子供を“見世物”にする親の気持ちが理解できないのです。スポーツや他の面で優れた能力のある人が活躍するのは理解できます。また、本人が希望して芸能活動をすることも理解できます。しかし、ただ「ハーフ」だからという理由で子供をモデルにする、子供を“見世物”にすることにあまり抵抗も感じないのは不思議です。
「ハーフ」は今でも特別扱いされています。それは、日本語以外の言葉(多くは英語)が出来ると思われていることと、容姿が周囲と違う「ハーフ」の場合には、その存在が目立ってしまうからだと思います。私は「ハーフ」が特別扱いされる原因には、「ハーフ」が芸能界という特別な場所に出るからというのもあると思います。本人の能力とは関係なく、ただ「ハーフ」だからといってチヤホヤされていると思える今の風潮を良い傾向だと思いません。そして、一番理解できないのが、自分の子供を“見世物”にする親です。
私は自分が動物園のパンダではないかと思ったときがあります。動物園のオリに入れられているパンダは、いつも人からみられています。いつも人の視線の中で生きなければなりません。いつも人から見られている私は動物園のパンダと同じではないかと思ったものです。子供を親がモデルなどにしようとして事務所に登録するのは、子供をブラウン管や紙面というオリの中に入れることと同じだと思います。動物園のパンダのように人からいつも見られる存在にする。動物園のパンダは、いつも人から見られていて幸せなのでしょうか? |
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2003,08,01 |
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投稿者:Nikolaus 25歳 |
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「ハーフ?ダブル?議論を終えるには」
「ハーフ」か「ダブル」か、という議論はいつまでたっても終わる気配がしません。けれど、この議論はそろそろ終わりにするべきだと思います。少なくとも本人達以外の周囲の人間、親を含めた人間がこの議論に加わることはやめるべきです。
この問題は周囲の人間が話し合ったからといって解決する問題ではありません。どちらか一方を選択するか、新しい言葉を創るかしても解決するものではないと思います。呼ばれる側には「ハーフ」という言葉が嫌いな人もいれば、「ダブル」という言葉が嫌いな人もいます。どちらか一方をただ選ぶだけでは後になってシコリが残るだけです。
以前、私は母に「ハーフかダブルかどっちがいい?」と聞いたことがあります。そして返って来た答えはこうでした。
「そんな呼び方は必要ない。どう呼ぼうが私の子供に変わりはないのだから」
よく考えればこれは当然のことなのでしょう。母は当たり前のことを言ったに過ぎないのです。けれど、この当たり前の考え方が浸透していないのが現実のようです。
ただでさえ「ハーフ(ダブル)」と呼ばれる人は周りから特別な存在として見られます。それを助長するようなこと、「ハーフ(ダブル)」として周囲から特別扱いする風潮に、親が積極的に手を貸すのはいかがなものでしょうか?子供を名前以外の呼び方で呼ぶ、特別な存在として「枠」に収める言葉を使うこと自体が間違っているとは思わないのでしょうか?私はこの議論に加わる親をはじめとする周囲の人に言いたい。
「どう呼ばれるかは本人達が決めることであって、周りの人間が決めることではない」
と。私がこの議論について語り、特に「ダブル」という言葉に反発するのは、それが「ハーフ」などと同じように周囲から与えられたものであって、そう呼ばれる立場にある人間が自ら進んで提案して使い始めた言葉ではないからです。
これからは、実際に「ハーフ(ダブル)」と呼ばれた人間がこの議論を引き受けることになるでしょう。もしかしたら結論は出ないかもしれません。けれど、どんな結論が出るにしてもその結論はそのまま受け入れて下さい。それが本人達の選択なのですから。
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2003,10,08 |
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投稿者:Nikolaus 25歳 |
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「『混血』という言葉」
「ハーフ」という言葉が使われる前は私のような存在を指すのに「混血」という言葉が使われていたそうです。いまでも時々この言葉を耳にしますが、私はこの「混血」という言葉は好きになれません。なぜなら、それは「混血」という言葉が「血」を問題にしているからです。
よく「日本人の血」という言葉を使う人がいます。けれど、「日本人の血」とはいったいどういうものなのでしょうか?「日本人」の体の中には特別な色の血でも流れているのでしょうか?赤ではない他の色で、ABO式血液型で分けられない、何か特別な「血」でも流れていると言うのでしょうか?
よく言われる「日本人の血」のような「血」に基づく考えは、人が作り出した“幻想”だと言えると思います。なぜなら、科学的に見るとこのような特別な「血」の存在などは証明できないからです。しかし、それでも「血」を問題にする人が後を立たないのは、それが「思想」として、「文化」として定着しているからでしょう。「文化」として定着しているから、人は「血」という考え方から離れられないのだと思います。
この「血」の概念が「文化」として定着していることを考慮すると、「ハーフ」も「混血」も同じだという考えに行き着きます。「日本人の血が“半分”混ざった存在」を表す「ハーフ」は、「混血」と同じように「血」が関係する言葉です。では、「ダブル」という言葉はどうなのでしょうか?
私は「ダブル」も同じだと思います。「ハーフ“half”」は“half-blood”を省略したものだと最近の辞書には書いてあります。この「ハーフ」を“裏返し(「half⇔double」)”にした言葉が「ダブル“double”」だというなら、後ろには常に“blood”が付いて来ます。つまり、「ダブル」は「ハーフ」と同類語なのです。
また、最近は「ミックス」という言葉も登場してきました。けれど、この言葉は日本語で「混血」と訳されます。結局は他と同じ「血」の概念から生まれた言葉です。
こうしてみると「血」の概念に基づく「ハーフ」も私には受け入れ難い言葉になります。けれど、それでも私が「ハーフ」という言葉を使うのは、「血」を直接連想させる「混血」よりは“マシ”だからです。使い慣れていて音の響きも好きだから、私はこの言葉を使い続けているのです。
「純粋な日本人の血」に相対するものとして生まれて来た数々の言葉。文化的な意味での「血」と、生物学的な意味での「血」の混同。第二次大戦時のドイツやユーゴ内戦時のサラエボで悪影響を及ぼした「血の概念」。私はドイツの歴史を聞いて育った者として、この概念がジェノサイド(大量虐殺)の原因になり得ると聞いた者として、それに基づいた言葉を心から受け入れることは決してありません。 |
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2003,11,25 |
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投稿者:Nikolaus 25歳 |
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「自己特別扱い」
最近、自分の考えを言うときに「ハーフは・・・」という語り方は使わない方がいいと思えて来ました。なぜなら「ハーフは・・・」という語り方は、「ハーフ」をひとつの“集団”として捉えた言い方だからです。仮に母親がドイツ出身で、父親が日本出身の人がいたとします。私はその人を“同じ”境遇の人だと見なすことはできるかもしれません。けれど、実際には“同じ”ではありません。似ているけれど“違う”のです。
これまで私は「ハーフは・・・」という語り方をすることがありました。けれど、これも安易に使うべき表現ではありませんでした。なぜなら、この語り方は自分自身をひとつの「枠」の中に入れてしまう語り方だからです。この語り方を使うと、まるで「ハーフ」という“集団”がいるかのように錯覚されてしまいます。しかし、現実にはそのような“集団”は存在しません。
どれだけ注意していても、時にはこの「枠」決めの「罠」にはまってしまうことがあります。「ハーフ」という「枠」を作ることで、私も“想像の世界”で「仲間」を作ってしまうことがあります。けれど、現実にはそのような「仲間」は存在しないのです。
ひとつの“集団”ではないのに「ハーフは・・・」という語り方をするのは適切ではありませんが、まるで“集団”のように見られている間は「ハーフは・・・」という語り方は必要なのかもしれません。いつかは「ハーフは・・・」という語り方が必要なくなるときが来るのでしょうが、それまではこの語り方は必要だと思います。だから、しばらくは自分自身を“特別扱い”するこの語り方を使おうと思います。 |
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2005,04,24 |
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投稿者:Nikolaus 26歳 |
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「『ダブル』の限界」
「ダブル」という言葉には、そう呼ぶ対象をどこか特別視している感じがします。「日本の文化」と、もう一方(それ以上)の文化を受け継ぐ、「シングル」な人より優れた存在を「ダブル」として考えている印象を受けます。
「二つ以上の文化を受け継ぐ」という意味を込めて使われる場合、そこでの「文化」とは言葉を指す場合が多いと思います。つまり、「ダブル」は「バイリンガル」を指し、「バイリンガル」であることが「ダブル」の条件にあるような印象を受けます。
例えば「バイリンガル」であることを「ダブル」の条件としてしまうと、「バイリンガル」でない人はどうなるのでしょう?言葉を覚えることに時間をかけられない人や、学校以外で言語教育を受けられない人はどうなるのでしょうか?
また「文化」を言葉に限定せずに考えた場合、家庭内において片方の「文化」にしか触れることが出来ない人は「ダブル」として認められないのでしょうか?ひとつ以上の国を自由に行き来できる環境にない場合はどうなるのでしょうか?
こうやって考えると、「ダブル」という言葉はごく限られた人しか対象としない言葉だという印象を受けます。私は「ハーフ」という言葉にも問題があることは認めます。しかし、だからといって「ダブル」に言い換える必要はないと思います。ひとまず「ハーフ」という言葉で保留しておき、そこから“呼び方・呼ばれ方”や、そう呼ばれることについて考えて行けばいいのではないでしょうか?
「ダブル」という言葉が登場したため、「ハーフ」と呼ばれることについて考えることができました。しかし、私は「ダブル」には考えるきっかけとしての評価しか出来ません。きっかけとして有効でも、この言葉は「ハーフ」の代わりにはならないと思います。 |
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2005,08,24 |
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投稿者:Nikolaus 27歳 |
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「方法としての集団化」
私は集団行動や集団を作るのが苦手です。高校時代の友達と時々集まることはあっても、同じ人たちと常に行動を共にすることはありません。そして、「民族」「宗教」「国」をもとにした「大きな集団」など、紛争の単位となり得る集団には強い嫌悪感を抱いています。
「日本人」とも「ドイツ人」とも言えるが、その両方とも言い切れない。そしてまた「ハーフ」というカテゴリーでも括られるが、それにもどこか違和感を持つという自分の経験から、行き着いたのは「自分は自分」でどの「大きな集団」にも属さないという考えでした。しかし、その姿勢だと結局は家族や友人達で形成される集団以外には所属のない個人になります。
「ハーフ」という枠組み(カテゴリー)に入れられ、それが持つイメージに左右されていた時期を経て「自分は自分」という考えに行き着いたのはいいのですが、それで良いのかとも思って来ました。なぜなら、「大きな集団」の前では個人の力は小さく「自分は自分」という考えだと、そのような集団と対話を行う際にあまり大きな声を発せないからです。
「ハーフ」という枠組みを集団として捉え、そして自分をその集団の一員の中に入れることに抵抗はあります。しかし、「大きな集団」と個人の関係を考えたとき「自己特別扱い」を行なって自分をあえて集団の中に入れるのも必要だと思っています。
「ハーフ」という枠組みを使って集まると、共通点より相違点を発見する可能性があります。しかし、その差異を乗越えたうえで話し合える可能性もあると思います。もし似た経験をしていて、それを互いに知ったなら、なぜ違う場所で育ったり年齢が違ったりする人がそのような経験をするのかを考えることが出来ます。また、そうやって話し合うことで、いま現在一人で考えている人に有益な情報を提供することも出来ると思います。
「昔のことで、もう終わった」「自分には関係のないこと」と言うのもいいですが、それではいつまで経っても同じことの繰り返しです。「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目」となり、そして「歴史は繰り返される」のです。
「方法としての集団化」とは、普段は「大きな集団」に頼らない個人が、目的を達成する方法として集まることを指しています。ホームページを通して経験を語りあうのもひとつの方法ですが、実際に会ってみるのもひとつの方法です。集団が苦手な私ですが、前向きな目的を持つ場合に限れば一時的に「大きな集団」になることは可能だと思います。 |
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2006,03,05 |
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投稿者:Nikolaus 27歳 |
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「ハーフ?ダブル? まとめ」
90年代中頃から「国際結婚」から生まれた人を「ダブル」と呼ぶ人たちが出てきました。それまで私のような人は「ハーフ(haafu)」と呼ばれてきましたが、その言葉の起源が英語の“half”にあり、それが「半分」という意味をもつことから「差別的」だと考えられ、「二倍」を指す英語“double”を起源とする「ダブル(daburu)」という呼び方が考案されました。「二つのルーツを持つ彼・彼女らは二倍の可能性を持っている。だから『半分』『半人前』の意味を持つ『ハーフ』はふさわしくない」、それが「ダブル」を好んで使う人たちの意見のようです。
しかし、この意見は三つのことを見落としています。一つは、言葉は文脈(状況)に規定されるということ。もう一つは、「ダブル」を唱え出したのが、そう呼ばれる人たちではなく、その周囲にいる人だったということ。そして最後が、何かの枠組み(カテゴリー)の中に個人を埋め込むことの問題性。
一点目ですが、「ダブル」という言葉も、例えば「ダブル・スパイ」のように、場合によってはネガティブな意味として使える言葉です。そのため、言われているように好ましい表現ではありません。例えば「や〜い『ダブル』!『ダブル・スパイ』!お前はどっちの国の見方なんだよ!この裏切り者!」といった使い方も出来ます。もちろん、この「ダブル」を「ハーフ」と置き換えても、また他の言葉に置き換えても同じです。問題は文脈(状況)であって、必ずしも言葉そのものではないということです。
二点目ですが、「ダブル」と呼ばれる対象にある人は、多くの場合「ハーフ」という言葉を使います。また、人によっては別の呼び方を使うこともありますし、聞かれるまで自分でその呼び方を使わずに「お母さんは〜〜の人、お父さんは〜〜の人」のように自己紹介する人もいます。本人達はそれぞれ自分の自己紹介法を持っています。周囲の人が「『ダブル』こそ正しい用語だ」として、各々の自己紹介法を否定することは、そう呼ばれる人達の気持ちを無視していることになります。大切なのは、そう呼ばれる人の気持ちであって、呼ぶ側の意思ではないと考えます。
しかし、「ハーフ」か「ダブル」か、どちらが正しい呼び方なのかを議論しても意味はないでしょう。一番考えるべきことは「何が正しい呼び方か」という問いの立て方で、そこが三点目に見落とされていることです。
例えば、日本と名付けられた島々の中で生まれ育ち、その育った土地の言葉を話し、その土地の人たちと意思疎通が出来る人を「日本人」とするならば、それらの要件をそなえた人がどのような出自を持っていても「日本人」として捉えられると思います。親の片方が他国出身であっても、もう片方は「日本人」です。それを「ダブル」などの言葉で「日本人」とは違うように言う必要はあるのでしょうか。
もっとも、もう片方の親の出自に自分を重ねる人もいるため「日本人」としてのみ見ることも、その人を理解していることにはなりません。ちなみに、このように二つ以上の帰属意識を持つことは「複数のアイデンティティ」を持つ状態だと表現されます。ただし、この「複数のアイデンティティ」は「国際結婚」で生まれた人に限らず、誰もが持ち合わせているものです。以下、それを少し説明します。
そもそも、人は様々な場所に帰属意識を持つことが出来ると思います。それは親族、学校、友達集団、職場、市町村、都道府県、国家、地域(例:アジア)、そして地球。これらの様々な帰属場所をもとに「自分」を形成するということです。「自分」という意識は、そのような複数の帰属場所への自己意識の同一化の集合と捉えることも出来ると思います。
つまり、見落とされている三点目は、その様々な要素から形成されている個人を、何かの特徴を備えているということで「特別な枠組み(カテゴリー)」のなかに押し込め、それによってその人が考える「自分」を否定するということです。
そして、その行為においてもっとも問題となるのは、それによって、ひとつの空間(地域社会)の共同生活者としての資格を疑う、「ヨソ者」として、その空間(地域社会)の出来事について「話す資格」のない者とみなすことにあると思います。
では、どうすれば良いのか?例えば、それは出会った人が考える「自分」を尊重し、そして、同じ土地に住んでいる共同生活者として見れば良いのではないでしょうか。そして、自分が共同生活者と思っても相手がそう思わない場合、遠慮せずに粘り強く話合って行けば良いと思います。そうすれば、自分の住む空間(地域社会)で、様々な出自を持った人と共に生きて行くことが出来ると思います。
この文章は2006年3月5日(日)、東京(新宿)で「国際結婚」と日本社会 〜親子関係から見えるもの〜
と題してお話をさせて頂いた会場で、資料として配布したものです。 |
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2006,12,15 |
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投稿者:エレナ 30代 |
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「ハーフとダブル」
最近、ハーフではなくてダブルと名称するべきだと一部の人達が言ってるらしいです。ハーフは半分と言う意味で不完全で出来そこないのニュアンスがあるから。差別用語だと言うんだけどハーフが不完全ならクォーターの人達は・・・・・・・・?
ハーフってもともと「半分外国人の血、半分日本人の血を持ってる」って意味合いで使われてて、中途半端な人種と言う意味を込めて呼んでる人はいないと思うんです。ハーフもクォーターも日本人の血の割合でそう呼んでますよね?ハーフは1/2日本人、クォーターは1/4日本人という具合に。
私はハーフよりもダブルって言葉のニュアンスのほうが嫌です。二倍だなんてサウンド的に太ってそうだし、ハーフってただでさえ太りやすいって言われてるのにそれに輪をかけたくないよ。
それにダブルを使った言葉では 二重人格者・二枚舌・二重スパイ・二重基準御都合主義とかですよ?こっちの方がよっぽど嫌ヤンケ!
それにダブルってなんか逆差別にもなりかねないと思う。だってダブルと言換える人達はこう言ってるんです。
「文化的・人種的にも2倍の体験をしており高く評価されるべき資質と能力を持っている」
これは混血の人は恵まれてるからダブルって言うべきだって聞こえるんだけどなぁ。こんな事学校生活の時に言ったりしたら、なお更叩かれるよ。まるでハーフじゃないのは恵まれてないみたいなんだもん。どうだろ。
混血に対する特殊な呼び方があるかぎり続くと思う。言換えだとかなんとかは。
実際『混血』と言われて差別だと感じる人もいるわけだし『ハーフ』も差別用語と言う人達がいるわけですよ。言葉って人によって取りようが違いうから・・・・・。まぁ、私はハーフとか混血児でも合いの子でもいいけどこの呼び方だけは勘弁してくれ!!
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2008,7,17 |
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投稿者:Nikolaus 30歳 |
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「グローバリゼーションと『ミックス』」
「ハーフ」などの呼び方・呼ばれ方について考えたとき、新しい呼称が生まれる時には、何か新しい動きが生じている時のように思います。
例えば、「ハーフからダブル」という提案が出たのは1990年代、冷戦が終結して世界的な交流(と紛争)が増加し始めた時期でした。この時期は東側諸国と西側諸国という硬直した境界が崩れ、新しい時代が来るという期待感が強まった一方で、それまで抑えられていた民族紛争も活発化した時期でした。
そのような、「新しい時代」が到来するという雰囲気のなかで、半分・半人前という意味を持つ「ハーフ」ではなく、異なる「二つの文化・ルーツ」を我が子に平等に受け継がせたいという親の願いが込められた「ダブル」という言葉は登場しました(1995年8月20にNHK衛星第一放送で放映された『日米二つの文化を生きる』[製作者:Theodore
Regge Life Jr.]において、この言葉は広く紹介されることになったと考えられます)。
しかし、この「ダブル」という言葉は、実際はそれほど浸透することはありませんでした。国際結婚をしている人々の中で使う人もいるのでしょうが、日本社会全体のなかでは、むしろ知らない人の方が多いでしょう。
なぜ「ダブル」が浸透しなかったのか、ひとつには国際結婚から生まれた人を日本では「ハーフ」と呼ぶことが一般化しており、実際に国際結婚から生まれた人たちの多くも自らを「ハーフ」と呼ぶことに抵抗が無かったからだと思います。
「ハーフ」という言葉は「ハーフ、いいなぁ〜」「カッコイイ」「カワイイ」などと肯定的な表現と共に使われることがあるため、一部の人々が言うような「差別意識」を感じない人がいます。また、周囲と異なるものとして「特別扱い」されることに抵抗がある人は、わざわざ「ダブル」という言葉を持ち出して自分を特別扱いすることはないでしょうし、さらに、この言葉は親を含めた周囲の人間が勝手に使い出した言葉であり、そう呼ばれる本人たちの意見を取り入れてなかったことも原因にあると考えます。
しかし、それら以外に「ダブル」という言葉が広まらなかった理由には、その呼称が時代に合わなかったという面もあると思います。それは、「ダブル」という言葉に込められた「二つの文化・ルーツ」を肯定的に受け入れるという発想が、地球規模の複雑な相互交流する時代、二つ以上の「複数の文化・ルーツ」を背景にもつ人が増える時代に合わなかったことがこの言葉を浸透させなかった原因にあると思います。
1990年以降、世界は「グローバリゼーションの時代」に入ったとも言われるようになりました。それまでの「国際化」(国と国との交流の流れから)の時代から、より急速で複雑なモノ・ヒト・カネ(資本)が地球を行き交う時代に入り、複数の文化・ルーツを持つ人もさらに増え始めました。
日本では、それまでにいた小笠原諸島に住む欧米系の人々、「アイヌ(ウタリ)」と呼ばれる人々、「在日韓国・朝鮮人(コリアン)」と呼ばれる人々や「華人」に加え、「中国残留孤児」と呼ばれる人とその家族、ヴェトナム戦争に端を発する難民、日本にルーツのある「日系人」と呼ばれる人々の移住、中国を始めとした周辺諸国との経済的なつながりのなかでの新たな人的交流の増加、さらには日本国外で生まれ育つ「日本人」や「帰国子女」と呼ばれる人々の増加により日本に住むヒトのルーツ(出自)もさらに多様化しています。そのような時代においては、もはや「ダブル」ではなく、より複雑なルーツを取り込める言葉が必要になって来ているのでしょう。
2002年以降、インターネットなどでこのテーマについて書かれたものを見たとき、そこに新たな呼称である「ミックス」という言葉を発見するようになりました。「複数のルーツ・文化」をもつことを意味する「ミックス」という言葉は、それまでのように親の立場の人だけでなく、子の立場の中からも使われ始めているようです。
しかし、現在のところ「ミックス」は犬などのペットに対して使われることが多く、それがヒトに対して使われることはあまりありませんが、この「グローバリゼーション(グローバル化)」(地球規模でのヒト・モノ・カネが複雑に行き交うこと)の流れにおいては、「ハーフ」でもなく「ダブル」でもなく、「ミックス」という言葉が必要にされているのかもしれません。
もっとも、「ミックス」も手放しで受け入れられる言葉ではありません。なぜなら、これはカタカナで表記すると「カッコイイ」という印象を受けますが、翻訳すると「雑種」「混血(児)」と置き換えることもでき、再び“純(ピュア)なものより価値が低いことを表現した言葉”に先祖帰りしたとも言えるからです。
「混血児」「混血」「あいのこ(間の子・合いの子)」「ハーフ」「ダブル」と来て「ミックス」へ。それぞれの言葉に込められた意味合い、表記方法(漢字、平仮名、カタカナ)は違いますが、「差別」的待遇につながる可能性のある「特別扱い」が解消されていないということでは、それまでと何一つ変わってないとも言えます。
しかし、様々な問題はあるものの、新たな呼称が提案されるということは、そこに何か新しい動きが生じていることの証拠と見ることは可能です。「ミックス」という言葉の登場は、「グローバリゼーション」がキーワードになっている21世紀初頭の世界の中で、日本社会が多様化し始めていることを反映している証拠なのかもしれません。 |
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