国籍

2002,09,19
投稿者:Nikolaus 24歳

「国籍は二つも必要?」

 最近「国籍を二つ持てるようにして行こう!」という取り組みがあります。国籍を二つ持つ、つまり「二重国籍」ということです。自由に二つの国を移動するためには「二重国籍」である方が便利だということが、その理由のようです。

 EU諸国では入国審査が「EU諸国」と「非EU諸国」に分けて行われています。EU諸国の人の入国審査は簡単に行われ、非EU諸国出身の場合は慎重に行われています。これは自国民と他国民を分けて行う入国審査と同じです。

 以前イギリスへ行ったとき、EU諸国の人がほとんどフリーパスだったのを見て「ドイツのパスポートを持っていれば早く終わるのになぁ」と思ったことがあります。しかし、実際にドイツ国籍(パスポート)を持ちたいとは思いませんでした。もしドイツのパスポートを取得し長期間ドイツに滞在すれば、私には兵役もしくは介護補助の義務が生じます。たとえドイツ政府の保護を受けるからといって、一年や二年住んだだけでドイツ政府に奉仕する義務はないと思います。そういう考えもあって私は「二重国籍」でありたいとは思いません。

 「国籍を子供に選ばせるのは酷なことだ」という意見も聞きます。けれど、国籍を選ぶことの何がいけないのでしょうか?国籍で自分がナニ人か決まるわけではないのに。国籍は、住んでいる国の国籍を選べばいいだけのことではないのでしょうか?日本国籍を持っていても、今の日本で私は「日本人」とはみなされません。逆に国外で「日本人です」と自己紹介すると誰もが不思議がります。なかには「冗談を言ってるのか?」と言う人もいます。私がナニ人であるのかは国籍で決まるわけではないようです。

 「国籍=パスポート(旅券)」という意識のある私としては国籍とはただの通行手形でしかなく、それを持っているからといって自分が何者かが決まるわけではないと思っています。ドイツ国籍が無いからといって私のルーツが失われるわけではないのですから、「国籍=パスポート(旅券)」を二つ持つ必要はないと思っています。


2002,11,15
投稿者:Nikolaus 24歳
「国籍」

 高校生の頃から私は「国籍」について考えるようになりました。

「自分は日本人か?もし日本人ならどうして“ガイジン”と言われなければならないのか?日本で生まれ育ち、日本の学校に通っているのにどうして“ガイジン”なのか?もし自分が日本人でなければドイツ人になるのか?けど、ドイツ語がドイツに住んでる人並みに出来るわけではないし、ドイツに住んだこともない。ドイツのことはほとんど知らないのにドイツ人と言えるのか?」

 「国籍」が持つ意味について色々考えましたが、納得のいく答えは出ませんでした。そして、周りの人が私を“何者”か決めるのは「国籍」ではなく“外見”だという経験から、結局「国籍」には「旅券(パスポート)」以上の意味はないと思うようになりました。

 しかし実際、「国籍」には「日本人」と「他国人」を区別する役割があります。「国籍」は国が国民の範囲を決めるためのもの、誰に福祉をはじめとする様々なサービスを受ける“権利”を保障し、誰がそれらのサービスの代価としての納税の“義務”を負うのかということを決める役割を果たしています。

 また、「国籍」には心の境界線としての役割もあると思います。「国籍」が「日本国」でなかったら、たとえその人が日本で生まれ育ち、日本の教育を受けていたとしても同じ仲間だと思わない。それまで隣人として共に生活をしていても、「国籍」が「日本国」でないと知ったら少し距離を置いてしまう。そんな「心の垣根」としての役割を、「国籍」は果たしていると思います。

 けれども「他国人」と「日本人」の境界をはっきり決めることは可能なのでしょうか?誰が「日本人」で誰が「他国人」であるのか、「国籍」を基準にして決めるのは無理があるのではないでしょうか?また、人と接する上でそれを決める必要はあるのでしょうか?

2003,10,01
投稿者:Nikolaus 25歳
「パスポート」

 最近、私は日常生活の中で「自分はナニ人か?」と考えることはなくなりました。思春期の頃は「自分はナニ人か?」と何度も考えましたが近頃はほとんど考えません。しかし、それでもドイツへ行って返って来るときは「自分はナニ人か?」と考えてしまいます。

 日本に出入国するときにパスポート見せると、相手は日本語で話しかけてきます。パスポートには「日本国民」と記載されているのでそれが当たり前なのでしょう。けれども、ドイツに出入国するときには英語で話しかけられます。相手にしてみれば無難に会話を進めるために英語で話しかけてくるのでしょうが、私はドイツ語が理解できるのでドイツ語で話しかけられたいといつも思っています。しかし、二言三言の会話のために「ドイツ語が出来るのでドイツ語でお願いします」とアピールするのは時間の無駄ですので、効率性を重視して私も英語で返事をしています。

 ドイツで「他国人」として扱われるとき、私は「自分は日本人なんだなぁ」と思います。パスポートを使うとき私は「ドイツ人」ではなく「他国人(日本人)」になるのです。逆に、日本で私は「ドイツ人(他国人)」になるときがあります。それは、空港や街で英語を用いて話しかけられたり、「どちらの国から来られたのですか」と尋ねられたりしたときです。そのようなとき「自分はドイツ人(ガイジン)なんだなぁ」と思うのです。

 「日本国」と書かれたパスポートを使うたびに私は「日本人」になり、外見というパスポートから日本では「ドイツ人(ガイジン)」になるようです。私が考える自分の所属場所と、人が考える私の所属場所はいつも違います。私はそのバランスをとるために長い年月を費やして来ました。けれど、最近になってこのアンバランスな存在こそが自分なのだと思えるようになりました。

 人が私の国籍を判断するために使う「パスポート」と、外見で“仲間”か“ヨソ者”かを判断する「パスポート」は違います。日本で私は国籍で“仲間”でも、外見では“ヨソ者”です。また、ドイツでは国籍は“ヨソ者”でも外見は“仲間”です。その扱いの違いに以前は憤りを感じましたが、今はそれを受け入れられるようになりました。やはり、人の判断を気にするより自分がどう思うかが大切なのだと思います。「パスポート」よりも「自分」がどう思うか、それが大切なのだと私はようやく思えるようになりました。

2004,04,18
投稿者:Nikolaus 25歳
「国籍の選択≪前編≫」

 「国籍選択は重国籍者の大切な義務です。」

 これは国籍選択を呼びかける法務省のパンフレットの表紙に書かれている言葉です。初めてこのパンフレットを目にしたとき、私は「義務」という二文字に違和感を覚えました(ちなみに、旧パンフレットの表紙では「はっきりさせよう あなたの国籍」となっています)。

 このパンフレットのもとになる、重国籍者の国籍選択については「国籍法」(1985年改定)に次のように規定されています。 

 第十四条「外国の国籍を有する日本国民は、外国及び日本の国籍を有することとなった時が二十歳に達する以前であるときは二十二歳に達するまでに、その時が二十歳に達した後であるときはその時から二年以内に、いずれかの国籍を選択しなければならない」
「日本の国籍の選択は、外国の国籍を離脱することによるほかは、戸籍法の定めるところにより、日本の国籍を選択し、かつ、外国の国籍を放棄する旨の宣言をすることによってする」

 パンフレットを開くと右側のページに「2.国籍選択の方法」という項目があり、「(1)日本の国籍を選択する場合@外国の国籍を離脱する方法A日本の国籍の選択を宣言をする方法」と「(2)外国の国籍を選択する方法@日本の国籍を離脱する方法A外国の国籍を選択する方法」と続いています。これは「第十四条」に規定されている「国籍の選択」を反映したものです。

 また、この項目には次のような文言が添えられています。
「国籍を選択するには、自己の意思に基づき、次のいずれかの方法により選択してください」

 このパンフレットの「国籍選択の方法」を読むと一見@とAの両方を行う必要がある、つまり「他国籍を離脱し、日本国籍の選択を宣言する」必要があるように誤解してしまいます。しかし、注意深く読むと「いずれかの方法」と書かれているようにどちらか一方でいいわけで、必ずしも他国籍離脱は必要ではないようです(これはもう一方の国の法律がどうなっているかにもよります)。

2004,04,18
投稿者:Nikolaus 25歳
「国籍の選択≪後編≫」

 他国籍の離脱については国籍法「第十六条」に

 「選択の宣言をした日本国民は、外国の国籍の離脱に努めなければならない」

と書かれています。ここから、他国籍の離脱は“努力目標”であって「義務」ではないということが読み取れます。

 このパンフレットは「重国籍」の人を減らしたいという方針で作られていることがわかります。しかし、法律を読むともう一方の国籍を離脱することは、日本の法律では「努力」するだけでいいことになっています。日本に住み、生まれながらに重国籍の人が日本国籍を保持したい場合、日本政府に対して行わなければならないのは「国籍選択届」の“提出”だけということのようです。相手の国の法律が重国籍を認め、また本人が保持していたいのなら重国籍であることは可能なようです。

 また、法務省のパンフレットには「選択しない場合は、日本の国籍を失うことがありますので注意してください」と書かれています。しかし、これは日本国籍を選ぶための選択届を「提出」しなかった場合であって、それを提出後に国内で他国籍の離脱を強制するものではないようです(努めることは必要ですが・・・)。

 このパンフレットを読んで私は「これは不必要に恐怖心を煽り立てている」と思いました。このパンフレットは、まさしく現代版「踏み絵」です。この踏み絵が現代的なのは「自己の意思に基づき」という文言を加えているところです。これによってたとえ他国籍を離脱したとしても、それは「自己の意思」に基づくものだと言わせることができるからです。一方で「義務」と書いておきながら、他方で「自己の意思」と書く。これは実に巧妙に作られた「踏み絵」だと思います。

 いまの私は重国籍でありたいとは思っていません。それは将来自分が母の国ドイツに住む予定がないからです。けれど、日本で生まれ育った重国籍者の中には将来他の国に住む人もいると思います。その人たちに現在の居住国(日本)の国籍喪失という“恐怖心”を煽るこのやり方には疑問を覚えます。どうしてそこまでして国籍を選ばせ(他国籍を捨てさせ)たいのでしょうか?これを考えた人が守りたいものとは、いったいなんなのでしょうか?

2005,10,21
投稿者:Mama Mia 35歳
「重国籍の必要性」

私は日米の二重国籍者です。 なかなか二重国籍の実態は知られていないのが現状で、私も20歳前後の頃に国籍法や法例を読んで自己判断したことを覚えています。日本の国籍法には「外国籍の離脱に努めよ」という規定がありますが、米国は重国籍をOKしてるので、一時は不安ながらもここまでパスポートは両方とも更新してきました。

私の場合、米国留学、米国での就職と成人してから合計10年間もの間アメリカに住むことになり、周囲の「日本人」がどれだけビザで苦労しているかどうか目の当たりにして来ました。米国留学以前に過ごしたスペインで就職をすることに関してビザの問題があり、就職の選択が限られていたことも記憶にあります。そのとき「EU諸国のパスポートを持っていればなぁ」と思ったものです。旅行をするだけならば通行手形ということになりますが、私にとって国籍は在住資格と就労許可を意味していたので、二重国籍は大変助けになりました。

米国の大学にはTOEFLや日本の大学の成績証明書などの提出により留学生の手続きを踏んで入学。 しかしながら、入学して気がついたのはアメリカの大学の学費には3つの種類があることです。それは外国人の学費、州外アメリカ人の学費、州内アメリカ人の学費で、その順番で高いのです。つまり私の場合は留学生の入学規定で入学したにもかかわらず、学費に関してはパスポートのコピーを提出することにより州外アメリカ人の費用で済みました。

確かに兵役がある国では二重国籍は多少問題になります。しかし、国によっては兵役ではなく政府機関での労働によってその服役を代替することができる国もあります。それでも兵役を避けられなければ国籍を離脱するという選択があるわけです。例えば、二重国籍でなかったら兵役義務は避けられないわけなので、二重国籍はそれでもプラスというのが私の意見です。キープできるならキープしたほうが人によっては絶対に便利です。

私は今年の12月に出産予定です。スウェーデン人の主人と日米の二重国籍の私から生まれる赤ちゃんはなんと三重国籍になります。生まれるのは北京ですからこの子には将来のために沢山の選択支を用意してあげたいのです。だから、重国籍は必要だと思います。

2005,12,01
投稿者:Nikolaus 27歳
「国勢調査の国籍欄」

 5年に一度行なわれる国勢調査、その調査項目である「国籍」欄に疑問を覚えます。なぜなら、そこには「日本」と「外国」しかなく、それによって私は「ナニ人か?」と聞かれていると感じるからです。

 確かに国籍では「日本人」に違いありませんが、私は日本以外の地域・文化も背景に持っています。為政者の中には、日本は「単一民族国家」だと言ったり「一文化、一文明、一民族、一言語」だと言ったりする人がいますが、実際はそうではなく、日本にも様々な出自を持つ人が住んでいます。ただ、それが見えにくいという側面もあります。あえて見ない人もいます。だからこそ、そういう人たちにも、はっきりと見える形で多様な国政参加者の存在を示す必要があると思います。国勢調査という統計調査への数値的反映は、そのひとつの方法だと考えます。

 統計調査の選択項目は固定的なものではありません。それを行なう側が自由に選択項目を作っているにすぎないのです。それを変更することは不可能ではありません。では、どのような項目を付け加えるのか。

 例えば「出自地域」というものを作ってはどうでしょうか?国籍欄はそのままにし、出自地域として「東アジア・東南アジア・中央アジア・大洋州(オーストラリアを含む地域)・中東・アフリカ・ヨーロッパ(欧州)・北米・中南米」(外務省の地域分けを参考)のようにし、それを選択肢に加える(もちろん、もっと細かい地域の分け方も考えられます)。これによって国籍は「日本」だけど、様々な背景を持つ人の存在を可視化できると思います。 もちろん、これは祖父母の代や、それ以上の代が日本諸島以外にある人まで含んでいます。例えば、ドイツにも出自地域を持つ私の場合は「国籍:日本」「出自地域:東アジア・ヨーロッパ」ということになります。

 いまの「日本人」という言葉には、「国籍・出自地域」が日本国・日本諸島にあることが前提にあると思います。しかし、国籍は日本であっても、出自地域が日本諸島に限らない人もいます。だからこそ、様々な出自があることを可視化する必要があると思います。

 日本社会の排他性は、排他的な人にのみあるのではありません。それは「制度」としても存在しています。排他的な人が作った制度が、その後固定され排他的な人を作っているとも言えます。「国勢調査」という、一見些細に思えるところにも、それは存在しているのです。誰にとっても住みよい社会にするには、その排他性を変える必要性があります。その方法の一つとして、「国勢調査」の選択項目の追加・変更があると考えます。

2006,03,05
投稿者:Nikolaus 27歳
「国籍アンケート」

 「国籍を記入して下さい」。このような質問をされると、なぜかいつも違和感を覚えます。なぜなら、それはおそらく次のような前提があると感じるからです。すなわち、「一生一人一国籍」であり、一人の人は一つの国籍にのみ「自分」の帰属意識を重ねるという前提。それがあると感じるから、この質問に違和感を覚えるのだと思います。しかし、この前提、はたして妥当なのでしょうか。

 例えば次の四つの場合はどうなるのでしょう。一つめは、結婚によって配偶者の国籍を得た場合。二つめは、居住地での利便性のため他国籍を取得する場合。三つめは、無国籍の場合。そして最後が重国籍の場合。

 一つめの場合、例えば「日本国籍保持者」としてそれまでの人生を過ごした人は、おそらく自分を「日本人」と考えると思います。結婚によって「日本国民」から「他国民」に国籍が変更されたとしても、それまで考えていた「自分」の意識が変わることはないでしょう。

 二つめの場合、居住している地域の参政権などを得るという利便性から国籍を取得したとしても、それまでの「自分」に対する考え方は変わらないと考えます。「日本人」として生まれ育った人が、手続きを行うだけで「日本人」以外に変わることはないでしょう。

 三つめの場合、国籍を持っていなかったら「ナニ人」になるのでしょうか。この無国籍になる例は映画『ターミナル』のような場合です。自分の居住地を含む広い土地を統治していた政権が交代(転覆・消滅)したことによって、所持している国籍が無効になる場合(なお、この映画はフィクションです)。

 最後の場合、例えば国籍に「自分」を重ねる「重国籍」者の場合、それは複数の「自分」を持っていることの証です。日本の国籍法は22歳で「国籍選択届」を出すことが求められ、それによって原則「一人一国籍」と把握されますが、それまでは法律上「重国籍」であることは可能です。そのように複数の「自分」を持っていた人が、国籍を一つに絞ると宣言したからといって、急にそれまでの「自分」から違う自分に変わるとは考えられません。

 いま、日本国籍を持っている人が、明日には他の国籍を持つ可能性もあります。ある人がたまたま「一生一人一国籍」だったからといって、他の人がそうだとは限りません。人によっては国籍と帰属意識のズレを経験していることも十分あるのです。

 いままで「国籍」は一定の帰属意識と密接に関わっていましたが、それが乖離している人も増えて来ています。そのなかにあって「あなたの国籍は?」という質問は、そのような現実に対応できていません。

 そこで、例えば「出自地域」という質問項目を加えてみてはどうでしょうか?国籍欄はそのままにし、出自地域として「中央アジア」や「東南アジア」のような選択肢を加える(もちろん、さらに細かい分け方も考えられます)。そして、そのように工夫すれば、国籍では反映できない帰属意識のある現実に対応できると考えます。

 この文章は2006年3月5日(日)、東京(新宿)で「国際結婚」と日本社会 〜親子関係から見えるもの〜
 と題してお話をさせて頂いた会場で資料として配布したものです。

2006,03,27
投稿者:ASH 42歳
「アメリカ国籍の日本人」

私は自分自身のことを話すとき、とても悩みます。人生における様々な局面で、身分を証明する必要がある時、あるいは初対面のとき。「日本人」としてしか話せないのに「アメリカ人」として話さなければならない場面があるからです。行政の一つのミスが、私の人生を二つに分けてしまいました。

見た目は完全にと言ってもよい「ガイジン」な私。父はアメリカ、母は「日本人」です。日本に生まれ、日本で育ち、自慢にならないけど日本語しか喋らない。現在の国籍はアメリカ、21歳までは日本、間に若干の無国籍。

私が生まれた昭和38年(1963)当時の法律では父系血統主義により、私は父方のアメリカ国籍になるのが筋でした。ところが本来認められないはずの日本国籍が認められ、21歳まで普通に「日本人」として過ごしました。戸籍に載ったわけです(つまり父が市役所に提出した私の出生届を、間違って市役所は受理してしまったのです)。そして日本の小中学校に通い、日本の保険証を持ち、日本の文化の中で、日本人の友達と日本語で喋る・・・

21歳のあるとき友人に指摘されました「母子家庭じゃないんでしょ?両親はちゃんと結婚してるんだよね、じゃあ(日本国籍持ってるの)おかしい」。私にとっては「???」でした。そして市役所に問い合わせた所「はい、確かに間違ってましたので抹消しておきました」と・・・。窓口はそれだけでした。

かくして訳の解らないうちに「無国籍」となった私は、なんとかして「日本人」に戻れないものかと弁護士などへの相談を繰り返しましたが「前例が無い」等と取り合ってもらえませんでした。

そんな時私に海外へ行く仕事が入りました。しかし無国籍では出ても(日本へ)入れない事を知り、不本意ながら父方のアメリカ国籍を取得する事にしたのです。軍人で、幼少の頃から連絡の途絶えた父でしたが、両親の結婚証明書を手がかりに国籍を取得する事は出来ました。しかし無国籍状態からの脱出は叶ったものの、更に自分の本意とかけ離れていくのを感じました。以来21年間、アメリカ人「やらされてる」と感じてます。

行政が取った処置は、法律に照らし合わせれば間違ってはいません。しかしそれによって人生の半分を否定されたも同然の私は、自分を取り戻す為に今も闘っています。

今の世代の子達が、自分で国籍を選べる事、とても複雑な心境でみています。行政はシステムを変える際、隅々まで目を配る配慮と、もっと柔軟な姿勢・許容量が必要だと思います。枠組みで犠牲者を出さない為にも・・・

私には妻も子供もいます。以前は憤りを感じるだけでしたが、今は親となってみて、次世代の為にもこの事実を伝えなければいけないと思うようになりました。私のような体験を誰にもして欲しくないからこそ、世間に伝える事にしました。妻や子供、そして自分自身の為に「日本人」の身分を取り戻す闘いをこれからも続けていきます。虚像であるアメリカ人から、実像である日本人に戻る為に・・・


いつも心の奥では「私は日本人だ!」と言う叫びが木魂しています。

2008,08,20
投稿者: アデリーナ 26歳
「日本国籍=日本人?」

わたしには遠縁ですがフィリピン人の親戚がいます。血のつながりは薄いし、実際にあって日も浅いけど、すごく気が合うので、わたしは彼らのことをフィリピンのおばさんと、いとこたちと呼んでいます。

おばは、戦前にフィリピンに移住した日本人男性とフィリピン人女性との間に生まれた、いわゆるハーフ。 だから、いとこたちは日系クォーターということになります。私自身も、最近で言われるミックスなので、 わたしたちの日常会話は英語です。だから、一緒に買い物にいったとき、いつも彼らのために通訳をします。文化も違うし、喧嘩もするけど、一緒にいると、 とてもほっとする。仲間だなって気がするんです。

ある日、おばの住民登録をしにいった時のこと。役所の人は、表面上は優しかったんです、最初は。でも、国民性や、両国の文化の違いで、法的な手続きにおばたちが、ちょっと鷹揚なこと(悪く言えば、おおざっぱ)と、日本の過度にシステマティックな手続きに、みんな戸惑っている事を相談しにいったんです。そしたら、役所の人はこういったんです。

「日本語、一言も、しゃべれないの?全然?」(おばたちの仕事は夜勤、しかも肉体労働です。勉強する暇 なんてありません。第一、フィリピン人として ずっとフィリピンで、育ったのに...。) 「いとこさんたちは、ともかく、おばさんは“半分”日本人なんだし、やっぱり、日本にきたら、日本のやり方に合わせなきゃ。こういう言い方はアレだけど、やっぱりお国があんまり豊じゃないから、日本に働きに来ているんでしょ、だからこそ、ちゃんと手続きをしないと、やっぱり、じゃあ、もうフィリピンに帰ってってことになっちゃうとおもうの。 “日本人さん”も、“外国人さん”も、その点は変わらないですよ。留学なんかしたら、“日本人”さんも、必要な手続きを怠ったとき、もっと厳しい処置を受ける場合もあるんですよ。」

たしかに、その人のいう事は一理あるかもしれない。ただ、私が知る限り、移民受入国(先進国?)と言われる国には必ず移民弁護士がいて、留学生や、移民労働者をサポー トする機関があって、一般市民にも外国籍住民の権利に関心のある人、異文化間交流に積極的な人も多か ったです(他の言語を話せる人もです。)

さまざまな手続きで、不安があると、わかるまで丁寧に説明してくれる人もいるし、外国人に自国の文化を押し付けて“当たり前”という人は、すくなくとも、 わたしの周りには、いない。

一見優しく丁寧にみえるひとでも、本音は 「郷に入っては、郷に従え、日本人なら、日本人らしくして、当たり前、日本で働かせてやってるんだから、文句言わず、日本のやり方に従え」っていう、傲慢な本音が透けて見える気がする...。 (だったら、日本人も海外にいったらカラオケとか、夜の接待とか、やめなくちゃいけないね。お辞儀とか、奥ゆかしさが、日本の文化に根ざしたものだっていうのも、否定されて、たんなる卑屈な態度になりさがっちゃう。)

私が一番気になったのは、その職員の言った“はんぶん日本人だから”という言葉。はんぶん、半分ってなんだろう。自分自身のことではないけれど、私のここ ろも、まっぷたつに割られた気がする。

親の片方が外国人だと、じぶんが「〇〇人」とおもっ ていても、結局半分でしかないのだろうか。本人が、自分をどう考えているかは考慮されないのだろうか。 この一人の行政機関の職員の、無神経な(無知な?) 言葉を通して、アイデンティティや、個人の尊重と いうところで、日本は、まだまだとても鈍感だと感じ た瞬間でした。

最後に、やっぱり、フィリピンや南米は、日本人にと って貧しくて可哀想な国。だから、表面上は優しくし てあげてるんだなっていう、意味不明の優越感感じ て、ますます日本人に、不信感募りました。

その人が、どのくらい海外の事しっているかはわからない。けれども、外国で搾取に近い深夜労働は絶対さ せられたことないと思う。ましてやパスポートを取り上げられたり、契約書すら存在しなかったりなんて、 当事者として、想像すらできないんだろうな。 過酷な現実から、あえて目をそらして、守られた場所 から、既存の“日本”を振りかざす人は、まだまだ多 い気がします。