外人(ガイジン)

2002,09,19
投稿者:Nikolaus 24歳

「外人(ガイジン)という言葉」

 「外人」という言葉は「外国人」を省略した言葉だと一般的には考えられているのではないでしょうか?少なくとも辞書にはそう書いてあります。けど、この言葉はある特定の人たちを指して使われていると思います。

 みなさんは「外人顔」という言葉を聴いたこと、また使ったことはありますか?「外人顔」とはいったいどんな「顔」なんでしょう?この言葉を聞いた私の感じでは「顔のホリが深い」ことを「外人顔」というように思います。ここで疑問に思うのですが、日本人以外は全て顔のホリが深いのでしょうか?

 それは違いますよね。「外国人」でもホリが深くない人もいます。「外人顔」というときの「外人」とは、メディアなどで顔のホリの深さが目立っていた人たち、つまり白人と言われる人達のことを指す言葉だと思います。

 「外人」という言葉を私は小さい頃から耳にしてきました。町を歩いていると「あっ、外人だ!」とよく言われたものです。大きな声で言わない人でも、友達との会話の中で「外人がいる」などと話しているのを聞いて来ました。

 小さい頃から言われ続けることにより、いつしか私には「外人」という言葉が「害人」と聞こえてくるようになりました。誰も悪意があって言っているわけではなかったのでしょうが、私にはこの言葉はとても悪意のある言葉に聞こえます。

 今でも「外人」という言葉を耳にします。つい最近も小さな子供に「外人」と言われました。昔ほどではないですが、今でもこの言葉を聞くと嫌な気持ちになります。「外人」という言葉は私にとって特別な意味を持つ言葉です。

 「外人と言ったらどうしてだめなん?」と以前言われたことがあります。その人には「外人って言葉は私の嫌いな言葉なんだ!」と言いました。けど、そんな説明では多くの人は納得しませんよね、個人的な好みの問題になってしまいますから。ではどう答えれば良かったのでしょう?どうすれば誰もが「外人」という言葉を使わなくなるのでしょうか?


2002,10,02
投稿者:Nikolaus 24歳
「もう聞き飽きた!」

 私が通っていた中学校には「弁論大会」というものがありました。それは毎年五月頃に各クラスから選出された1名の代表が、自分の学年の集会で作文を発表するというものです。1年生のとき、私はクラスの代表としてその弁論大会で作文を発表する機会を得ました。そのとき発表した作文の題が「もう聞き飽きた!」です。

 私は学年全員の前で「どうして外人と言われないといけないのか」という趣旨のことを作文に書いて発表しました。このとき私が主張したことが、どれだけの人に伝わったかはわかりません。しかし、それまで心の中に仕舞い込んでいたことを声にして言ったことは、私にとって大きな意味がありました。

 今では、街を歩いているだけで「外人」と言われることはほとんどありませんが、「外人」という言葉はまだ耳にすることがあります。

 「アメリカは外人ばっかりだから疲れたよ」これは、アメリカ(合衆国)から帰ってきた知人が前に言っていた感想です。これを聞いた当時は「何を言っているのだろう?」と思いました。私は「外人」とは「外国人」の略語だと考えていて、「外国」へ行ったら誰もが「外人」になると考えていました。だからこの感想には正直驚きました。しかし、私はこの会話から「外人」が抵抗感無く使われる理由のヒントを得ました。

 「外人」が抵抗感無く使われるのは、この言葉が「アメリカ市民」の意味として使われているからなのでしょう。そして、この「外人=アメリカ市民」という考えは彼だけが持っているのではなく、多くの人が同じように考えているのではないでしょうか?だから誰も気付かないのです、この言葉がどれほど多くの人に不快な思いをさせているかということを・・・。

 今では言葉にして言う人は少なくなりましが、「外人=アメリカ市民」と思っている人はまだいると思います。そろそろ「外人(外国人?)=アメリカ市民」という考え方から卒業してもいいのではないでしょうか?そしてまた、外見が周りと大きく異なる人を「外人(ガイジン)」と呼ぶことから、卒業してはどうでしょうか?

2003,02,16
投稿者:Nikolaus 24歳
「やめませんか?『日本人』」

 「日本人は・・・」「日本人だから・・・」「日本人は昔から・・・」etc.

 書店へ行くと「日本人」について書かれた本がいっぱい並んでいます。また、TVや新聞、ラジオなどでも「日本人とは・・・」と語る人が大勢います。普段の会話の中にも「日本人だから〇〇なんだ」というように、「日本人」という言葉は日常の様々な場面で登場します。争いが起こったとき、「みんな“同じ”『日本人』なんだから、『日本人』“同士”仲良くしようよ」と言う人がいます。「みんな“同じ”」という言葉も様々な場面で使われます。

 日本には地域ごとに独特の言葉があります。それらは一般に“方言”と呼ばれています。しかし、中には本当に通じない“方言”もあります。それでも「あれは“方言”で、『日本語』の一つなんだ!」と人は説明します。どうして“同じ”「日本人」なのに言葉が通じないのでしょう?誰もが“同じ”「日本人」の“はず”なのに、言葉が通じないのは不思議ではありませんか?

 「古来『日本人』は、伝統的に・・・」などと解説する人がいます。例えば「神前結婚」、これが「日本」の伝統的な結婚式だと考えている人がいます。しかし、この「神前結婚」はキリスト教の結婚式に影響されて明治時代に作られたものだといいます。「伝統的なもの」とされているのに、その伝統はたった100年程度のものでしかない。もしかすると、「伝統」とされる行事の多くは明治時代からのもの、ここ100年程度の「伝統」なのかもしれません。

 「民族」は“同じ”「言葉」や“同じ”「習慣」、“同じ”「歴史」を共有した人の集まりだとされています。もしそれが本当なら、お互いまったく意思の疎通が出来ないほど“違う”「方言」は“同じ”「言葉」なのでしょうか?もし「習慣」が“同じ”なら、地域ごとに違った習慣があるのはどうなるのでしょうか?

 また、「民族」は“同じ”「血族」同士の集まりだとする人もいます。もし、本当に「“同じ”「血族」なら、今頃全ての「民族」は滅びていることでしょう。近親婚が許されないのは“同じ”「血族」同士で結びつくことの危険性を、誰もが知っているからです。つまり、“同じ”「血族」なんてことは、よく考えたら有り得ないことなのです。

 「民族」という概念は、もともとはヨーロッパから輸入されたものです。「民族」は英語で「nation(ネイション)」、ドイツ語では「Nation(ナチオーン)」で、これらは同時に「国民」という意味も持っています。また、今のような「国」が作られるようになったのはここ数百年の話です。  現在の「国」というものは、“同じ”ことが前提です。“同じ”「歴史」、“同じ”「旗」、“同じ”「歌」で「国」をまとめる。それが今の「国」です。どの「国」にも必要なのは“同じ”と信じることなのです。

 「やめませんか?『日本人』」というのは、誰もが“同じ”「日本人」だと考えることを「やめませんか?」ということです。それぞれの“違い”を認めて、お互いの価値観を尊重しませんか?“同じ”ではなく“違う”という考え方を始めませんか?そして、「“同じ”日本人」と「“違う”外人(ガイジン)」という分け方を、そろそろやめませんか?

2003.07.28(執筆2000,09,03)
投稿者:Courtney 16歳(執筆時)
「外人!」

 これが私にとって一番辛い言葉です。アホと言われるより、バカといわれるより何よりも辛く、心にグサっとくる言葉です。昔から言われ続け慣れてきたけど、いまだに言われると心臓がドキッとします。

 日本の国民のほとんどは純日本人なので、どこの国であろうと外国から来た人は皆“外人”と呼ばれてしまいます。別に外人と呼びたいならかってに呼べばいいと思っていてもやはり言われると心から自分がむなしくなってくるのです。自分は何をしたわけでもなく、ただ普段通り生きてるだけなのですから。

 特に日本人はとてもシャイな民族だと思うので、何か思っていることがあっても、なかなか言い出せません。なので道路とかで通りすぎる人々は珍しさのあまり、ずっとこちらを見ていたり、後ろを振り返ってまで ジロジロ見てきます。自意識過剰なわけではなく、明かにわかります。そして私が相手の事を見ると目をそらすのです。

 私からすれば言いたいことが何かあるのなら言って欲しい、話がしたいなら話しかけてくれればいいと思っているのですが、残念ながら、なかなかそこまで積極的な日本人の方々には遭遇したことがほとんどありません。もちろん中には通りすがりに「ハロー!」などと声をかけてくる人もいますが、以前、私にとって「ハロー」といわれるのは「外人」といわれるのと同じくらい嫌でした。まるで日本人の自分を捨てられたかのような気分で。

 この前も友達と夜、都内で遊んでいたのですが、友達が私と一緒にいると歩いてるだけで周りから視線感じて気が気じゃない。疲れる。といわれました。 私はもう慣れたし、嫌なときは相手にしないしぜんぜん平気なのですが、やはりそういった経験のない人がそういう面に遭遇するとたいへんなようです。

2004,10,15
投稿者:johnny 22歳
「国際化社会・・・?」

 最近良く「国際化社会」っていう言葉を耳にします。でも、その「国際化社会」って一体どの程度達成できてるのでしょう。

 最近の話なのですが、散歩がてら買い物にでも出かけよう、と思った日のことです。私は商店街(都内)を歩いていたのですが、そこにパトロール中らしき警察官が立っていました。その警察官は私とすれ違う間、ずっと私のほうをジロジロ見ていました。もちろん警察官に ジロジロ見られていい気分なはずがありません。「何かイヤだな」と思って通り過ぎてから1分後、ものすごい勢いでさっきの警察官が自転車に乗って追いかけてきたのです。その時の対応といったら・・・。

 「おい、お前止まれ。ストップストップ!」

 もちろんストップと言ったのは「ハーフ」である私の顔が「外国人」ぽかったからでしょうが。そして「身分証明書を見せろ」と言ってきたのです。身分証明するものなんて学生証くらいしかなかったので学生証を見せましたが偽物扱いで「こんなもんじゃない、もっとちゃんとしたヤツだ。「外国人証明書」とかパスポートとか。」と言われました。・・・パスポートを年がら年中持ち歩く人なんているでしょうか。しかも国籍が日本である私が「外国人証明書」なんて持ってるはずがありません。

 「国籍は日本なのでそういうのはないんですが」と説明しても信じてはもらえず、もう完全に不審者扱いです。国籍はどこだ、住所はどこだ、学生証はどこで手に入れたか・・・質問、いや、尋問の嵐でした。もう仕方がないのでプライベートである身の上話をしたと ころ、やっとの事で解放されました。

 もちろん警察の人は最後には謝ってきたのですが、相当頭にきた私は「気分が悪いからこういう事はやめてくれ」と言いました。「外国人」に見えたら誰でもこのように声をかけていいのかということです。

 それだけではありません。以前私がトラブルに巻き込まれて警察に出向いたときです。私は被害者であるのに、警察の人はまるで私が加害者かのように「国籍」を始めとする経歴や家庭環境などを聞いてきました。事情聴取そっちのけです。被害者である人間がそのようなことを聞かれる必要があるのでしょうか?

 全ての「ハーフ」の人が同じではないと思いますが、顔がいわゆる「純日本人」ではない、名前が漢字ではないというだけで、国籍は日本なのに「日本人」として捉えてもらえない、またひどい時は不審者扱いされるという現実を知りました。これはまだ日本の中で、「外国人」を受け入れる動きが少ないことの現れでしょう。

 この社会は本当に、「国際化」していると言えるのでしょうか・・・?

2004,12,06
投稿者:Nikolaus 26歳
「他国人」

 言葉は不思議なものです。それは同じ言葉でも人によって使い方が違うからです。自分では何とも思ってない言葉で、人を不愉快にさせることがあります。ひとつの言葉で“使う側”と“使われる側”の受け止め方が違うとき、このようなことが起こります。

 また、自分が何気なく使っている言葉でも、他の人が別の気持ちを込めて使っていることがあります。自分が親しみの気持ちを込めて使った言葉でも、他の人が疎ましい気持ちを込めて使っていることもあります。

 自分が何気なく使っている言葉でも、前に疎ましい気持ちを込めて使われた人にとってその言葉は、苦い経験を思い起こさせる「鍵」となります。その「鍵」は心に働きかけるため、誰にも見ることができません。見ることが出来ないため、誰もそれに気づくことが出来ないのです。しかし、中にはその「鍵」に気づく人がいます。そして、その中でも思いやりの心を持つ人は、その「鍵」を取り換えることを思いつきます。苦い思い出がよみがえって来ないように、前の「鍵」を使わないようにします。

 しかし、この「鍵」がなくなっても疎ましい気持ちは変わりません。ある人に疎ましい気持ちを抱いている人は、新しい「鍵」でも前と同じ事を繰り返します。「鍵」は「鍵」ですから、それを換えても人の気持ちまでは変えらないのです。「鍵」を取り換える、すなわち「言葉」を変えるだけではだめなのです。多くの場合、問題は言葉ではなく“気持ち”なのですから。

 ところで、もし「鍵」そのものにトゲがある場合ならどうでしょうか?もともとの「言葉」にトゲがある場合は、「鍵」の取換え、言葉を換えることには意味があると思います。トゲのある「鍵」は使いにくいだけですから、換えた方がいいと思います。


「外国人」や「外人」は、そういうトゲのある言葉のひとつだと思います。その理由を、言葉の“オト”と“字”についてみることで説明しようと思います。

 まず、「がいこくじん」や「がいじん」の両方に共通する「ガイ」という“オト”ですが、これはあまり良い印象を与える“オト”ではないと思います。また、「ガ」の一音も、あまり良い印象を与えるものではないと思います。一度ためしに「ガイ」や「ガ」という音を口に出して言ってみて下さい。この音を聞いて頭の中に浮かぶものは、あまり良いものではないと思いますが、いかがでしょうか?

 次に「外」という字です。この字は「ガイ」のほかに“そと”という読み方があります。“うち”ではない“そと”を表す字として「外」は使われます。この“うち”という言葉ですが、これには「内」という字だけでなく「家」や「中」の字が使われます。これらの字をあてるところを見ると、“うち”と“そと”の関係が見えて来ると思います。

 言葉が先か心が先かはわかりませんが、言葉によって人の心が保たれ続けることもあると思います。閉鎖的な心を表現した言葉や文字によって、閉鎖的な心が受け継がれていくことも考えられます。

 私は自分の住む国ではないところを示すのに「外国」という言葉を使う必要性はないと思います。響きも好ましくないと思われ、また閉鎖的な心を表現していると思われる言葉に、固執する必要はないと思います。

 そこで、これからは「他国」という言葉をいま以上に使っていくことを提案します。また、自分が住む国と違うところから来た人を「他国人」と呼ぶことも提案します。もし、この言葉が「長い」「言いにくい」という思う場合は、その省略形を使えばいいと思います。「他国人」の省略形、それは「他人」です。「自分」以外は誰もが「他人」なのですから、この言葉は違和感なく使えると思います。

 「他国」と「他国人」、これからはこの言葉を使って行くというのはどうでしょうか?
 
2005,05,07
投稿者:Nikolaus 26歳
「ハロー」

 「ハロー」、この言葉は「ガイジン(外人)」の次に気になる言葉です。

 小さいときから街を歩いているとよく遠くの方や、後ろから「ハロー」と声をかけられました。この言葉は小学生から高校生くらいまでの人が良く言っていたのを記憶しています。「あっ、ガイジンや」の後に「ハロー」と呼びかけられることもありました。

  近頃はほとんど聞くことがなくなりましたが、この前それを久しぶりに聞きました。それも日本のなかで、いわゆる「都会」(大使館が集まっている場所)で。そのとき呼びかけられたのは自分自身ではなく、髪の毛が明るく、顔の彫りが深めの小学生くらいの男の子。その言葉は近くの高校に通っている女生徒から発せられたものでした。

  以前、自分がそう呼びかけられたのは出身地(いわゆる「田舎」と呼ばれる所)だったため「まぁ、ここは田舎だから仕方がないか」と軽く流せました。しかし、今回は「都会」と呼ばれるところ。

  「ハロー」は親愛の情から来るものだと言う人もいるでしょう。また、興味を示してるだけのことでは?と言う人もいると思います。しかし、よく考えてみて欲しいのですが、街で見ず知らずの子どもに「コンニチワ〜」と遠くの方から、また背後から声をかけることはあるのでしょうか?

 好奇心があるのはいいことです。親愛の情があるのもいいことだと思います。しかし、もし相手が髪の毛の明るい色の子でなかったら、はたして「ハロー」と言っていたのでしょうか?

 はじめて「ハロー」と言われて20年(記憶では)、変わったところもあるけど、変わってないところもあるのだと実感した今日この頃でした。

2006,04,01
投稿者:Olivier 29歳
「外人」

「僕の母親は外人なんだ」ということを幼い頃から周りから指摘され続けられたことが、一番つらかった。「日本人」の男の妻でも「外人」。日本で生まれた子供の母親でも「外人」。金髪、青い目、服装から何から「目立つ、変、おかしい」と。「日本の母」と違うから、言葉が流暢じゃないから「外人」。要するに日本ではしかるべき大人、立派な人間と見られない。

一人でどうやって社会の偏見を変えられるのか。その実体のない敵に対して彼女は笑顔を絶やさず、働き、社会関係を築いていった。でもそれもあまり長くは続かなかった。家族も母や自分に「日本人」になることを期待したから。

日本に住む多くの人々は、自分達のもつ暴力性に目をつむっている。それが「外人」に対して表面化する。それだけ彼らは社会に、自分に、その本音を隠している。

そんな環境がとても嫌いで、小さい頃から高校2年まで喧嘩、スポーツ、音楽で憤りを発散させていた。そのうえ、親父が母を捨てた。「やっぱり日本人の女性じゃないと日本の生活がわからない」と。

ある日、フランスから母の幼馴染が遊びに来て、言葉が通じないながらも、とても楽しい時間をすごさせてくれた。なにより、自分でいられる、自分だから受けいられていることをはじめて感じた。心の中だけではなく、違う環境で別の自分に合えると知った。

その2ヵ月後、高2で中退。15歳単独で渡仏し、フランス語初級コースから初めて、2年前商業大学卒業、日仏英、貿易会社で働いています。

日本が懐かしくたまらないときもあります。フランスも「人種差別」が大変な社会問題になっています。今度は僕が「内人」の立場になったというだけです。

小さな自分の経験ですが、「差別」を受け入れず、自分を諦めないことの大切さ、「差別」のない社会はいまだ存在したことはないし、本能的に排他的になってしまう人類かもしれないけど、小さなことの積み重ねで、社会を良いほうに変えていくことはできると信じています。

2006,11,11
投稿者:Nikolaus 28歳
「言葉をめぐる衝突を避けるには」

 言葉は、単なる単語の組合せではなく、そこで生まれる文脈も考えなければいけないものです。ある単語について誤解が生じやすいのは、その単語の置かれる文脈に注意を払ってないからなのです。

 「外人(ガイジン)と言って何が悪いのか?自分は否定的な意味合いでは使ってないのに・・・」

 例えば「外人(ガイジン)」という単語を問題にするとき、そう指摘されたことに困惑する人は、しばしばこのように主張します。そして、問題視する人としない人の間で相互に理解しえないとき、激しい衝突が起こることもあります。

  ある人にとって何の疑問もなく使っている単語も、別の人にとっては異なった意味を持っているものです(「自分の常識は、他人の非常識」)。単語の意味は、その単語の中に既にあるのではなく、その単語が置かれる文脈に左右されています。

 知らない単語に出会い、その意味を知りたいとき、学校では辞書を引くように教わります。しかし、もしその単語が辞書にない場合、その単語の意味はどうやったら身につけることが出来るのか?

 そのようなとき重要になって来るのが文脈です。文脈を考えれば、ある単語がどのような意味で使われているか、おおよそ検討がつきます。

 これは、言葉を全く知らない幼い子どもが、言葉を身につける過程を考えればわかることでしょう。言うまでもないことですが、言葉を知らない子どもは辞書を引くことが出来ないため、親など周囲の人が行なう動作の説明や会話から単語の意味を身につけるしかありません。子どもはそうやって文脈(状況)から単語の意味を学んでいくようです。

 「外人」という単語を否定的な意味合いで使われた経験のある人は、その経験の中で単語の意味を理解しています。例えば私のように「外人(ガイジン)」という単語を「害人」として捉えていた(いる)ように。

 また、別の人は「外人(ガイジン)」という単語を「鼻が高くて、金髪で、目の色が青い人」に使うものだと理解している人もいるでしょうし、髪の毛の色が黒以外の人、顔の作りが自分の住んでいる地域の多くの人と少し異なっている人、そういう人を指す単語が「外人(ガイジン)」だと理解している人もいるでしょう。

  「悪気がなく使っている」と主張する人は、「外人(ガイジン)」という単語を、そういう特徴を持った人を指すのだと理解しているため、異議を唱えられると困惑するのだと考えます。そういう人の中には「外人(ガイジン)に外人(ガイジン)と言って何が悪いのか」と言う人もいます。

  ある単語がなぜ人によっては疑問を感じないものなのに、ある人にとっては嫌悪の対象になるのか。それは、これまで書いて来たように、それぞれの人が経験から学んできた単語の意味が違うからです。

 そのため、ある単語について考えるときは、まずその単語と、その単語を置かれている文脈に注意する必要があります。そうでなければ、いつまで経ってもその単語をめぐる衝突は繰り返されるだけです。

 衝突を避け、相互理解するには、お互いの経験から学んだ単語の意味を理解し合うことです。そして、もし自分以外の人を大事にしたいと思うなら、そしてまた、自分も他の人から大事にされたいと思うのなら、その人が嫌う単語を使わないことでしょう。

 もっとも、ある単語が無くなったからと言って、その単語が置かれていた文脈がある限り、そこには別の新しい単語が入って来ます。ある単語の使用を制限したり、それに代わるものを新しく創ったりしても、文脈が変わらない限り何も変わらないということは自覚しておく必要はあります。

 いずれにしろ大切なのは、相手の気持ちを理解しようとする姿勢、それが衝突回避、相互理解への第一歩だと考えます。