Die Kreuzungsstelle 10年の軌跡

はじめに

 2012年9月19日でDie Kreuzungsstelle(ディー・クロイツングスシュテレ)も開設10周年になりました。始めた頃はこれほど長く続けるとは思いませんでしたが気付けば10年という歳月が経過しました。そこで、この機会にこれまで活動を続けて来て感じたことや、あまり触れて来なかった個人的な経験を書いてみようと思います。
 2007年の開設5周年には『ハーフとは何か』と題してハーフと〈呼ばれる〉ことの意味について考察しましたが、今回はこの活動を続けている理由や背景について書くことにします。「ナゼ、ハーフと〈呼ばれる〉ことをテーマにしたホームページ(ウェブサイト)を続けられるのか」、自身の活動を振り返る意味でもそれについて書いてみようと思います。

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ホームページ開設のきっかけ

  Die Kreuzungsstelle(ディー・クロイツングスシュテレ)の開設はホームページ(以下、ウェブサイト)内にも書いているように2002年5月にS・マーフィ重松著『アメラジアンの子供たち』(集英社、2002)を書店で偶然手に取ったことがきっかけです。アメラジアンと呼ばれる人々のことはそれ以前から新聞やテレビ番組を通して知っていましたが、それまで彼・彼女らが具体的にどのような人たちなのかは全くわかりませんでした。それは、メディアが報じるその人々が〈アメラジアン〉という独特の〈呼び名〉のためにハーフと呼ばれる自分とは縁遠い人々だと思っていたからです。アメラジアン(
Amerasian)とはアメリカ(Amer/U.S.A.)とアジア(Asian)にルーツを持つ人々のことで日本ではハーフと呼ばれる人々の一分類なのですが〈呼び名〉がハーフと異なるために当初は全く異なる問題を抱える人々だと考えていました。しかし、その本には自分の考えと似たことが書かれており、縁遠い人々というは誤解でした。

 とりわけ衝撃的だったのは、その本の著者が自らをアメラジアンと位置づけた〈当事者〉だったことです。アメリカ人の父と日本人の母のもとに第二次大戦後に生まれたマーフィ重松氏は、その本の中で自身は〈何者か〉という問いの答えを探求していました。そして、その旅は日本人を父に持ちドイツ人を母に持って日本で生まれ育った自分自身と重なるもので、アメリカにおける〈外国人〉を母親に持っていた彼の立場は自分の境遇に近かったために身近感も沸きました。アメリカ東海岸で育って周囲には姉達以外に似た境遇に人がいなかった彼の経験は同様に日本の地方都市で育った自身と重なりました。

「ガイジン!」、日本語を話し、日本人の親や親戚を持ち、日本の小学校に通い、名前も漢字四文字にもかかわらず街を歩けばそう呼ばれ続ける。その理不尽さを訴えても理解されず、その悔しさを心の奥底に仕舞い込んで生きていた自分にとって類似の経験をした人がいると知ったことは感動的でした。「仲間がいる」、遊び仲間の誰にも相談ぜず過ごしていた自分にとって悩みをわかってくれそうな人がいると思えたことは大変嬉しい体験でした。孤独感から解放された喜び、そのときの気持ちはそのようなものだったのだと思います。

 ハーフに目覚める、『アメラジアンの子供たち』を読んで自身に生じた心の変化はそう表現出来るものです。おそらく、多くの人は片方の親が他国出身者であれば生れた時点で「〈ハーフ〉になる」と考えると思うかもしれませんが、ハーフという自己の捉え方(アイデンティティ)は成長過程で植え込まれるもので生れた時点はただの乳児です。現在はインターネット上に子供の写真を掲載してハーフとして紹介する人々がいますがハーフと〈呼ばれる〉自己意識はそのように親も含め周囲が本人に植えつけるものであって、その子は生まれながらにしてハーフになる訳ではありません。どのような環境で育ち、どのように育てられるかによって人の意識は変化するものでしょう。

「女は女に生れるのではなく〈女になる〉もの」という考えがありますが、これは女性に限らず人の〈属性〉にまつわる〈らしさ〉についての考え方として広く適用できるものです。男女の違いは生れたときの身体的特徴によって決められるために性別は出生時に判別されることが多いですが〈女らしさ〉や〈男らしさ〉は身体的特徴とは関係なく用意されている〈規範〉です。例えば衣服でいえば女性らしい服装はスカート、男性はズボンというようなものはある環境の中での規範であって、他の環境で育てば衣服の規範も異なります。また、ランドセルでは男子は黒、女子は赤のような暗黙の了解が以前はあり、ベビー服では男の子は淡い水色、女の子は淡い桃色(ピンク)が一般的でしたが、そのような規範も現在では変化しつつありますし、男性も淡い桃色の服を着る地域があるように〈男らしさ〉〈女らしさ〉にまつわる規範も環境によって異なります。「女は女に生れるのではなく〈女になる〉もの」、これは成長過程で求められる〈女らしさ〉によって女性が〈創られる〉という考えだと理解していますが、これと同様なことは〈ハーフらしさ〉にも云えることです。

 それでは〈ハーフらしさ〉とは何でしょうか。おそらく「ハーフはカッコいい、カワイイ」「ファッションモデルになれる」「二つ以上の言葉が話せる」といったものが経験上〈ハーフらしさ〉と思いますが、他の〈らしさ〉と同様にこの〈ハーフらしさ〉は全員に当てはまるものではありません。そして、実際にそのような〈らしさ〉に合致する人がいたとしても、それは成長過程で要求される〈ハーフらしさ〉に合わせていた結果そうなったという場合が多いかもしれません。これは「女らしくしなさい」「男とはこうあるべきだ」というような教育同様に「ハーフはこうあるべきだ」とする親も含めた周囲からの期待で形成されるものです。「ハーフはハーフに生れるのではなく〈ハーフになる〉もの」、先の言葉を借りればそのように表現することが出来ます。『アメラジアンの子供たち』を読んで「ハーフと呼ばれる自分」について考え始めるまでハーフと呼ばれることについてそれほど深く考えて来なかったのですが、その本に出会ったことで自分自身の境遇について考えるようになりました。

 もっとも、本を読み込めば読み込むほどマーフィ重松氏の本は自分の疑問を完全に解消してくれるものではないことに気付きました。なぜなら、それは著者がアメリカ育ちのためか、彼の書くものはアメリカでの経験が基盤になっていることもあり日本で育った人々の経験を完全に理解したものではなかったからです。また、翻訳出版という形態は、たとえ日本でのみ出版されたとしてもそれは著者の言葉を伝えきれてなく、どこかよそよそしさを感じました。そのため、やはり日本で育った人による文章を読みたいと思うようになりました。

 そこで、巻末に載っていた参考書を探して本を集めてみることにしましたが、その多くは絶版になっていたり大学図書館に無かったため簡単には入手することが出来ませんでした。また、運よく手に入れて読んでみても〈当事者〉によるものも皆無でした。そこで次に間接的に書かれたもの、すなわち国際結婚についての本を読むことにして周辺から情報を集めることで欲しい情報を手に入れることにしました。

 なお、この資料探索は書籍のみならずインターネットの検索サイトを使ったのですが2002年当時は検索を繰り返してもなかなか期待するようなウェブサイトは無く、出版物と同様にハーフについて書かれたウェブサイトは本人が書いたものは稀で、そのほとんどが母親(時々父親)によるものでした。そして、そのようなウェブサイトの多くは彼・彼女らの視点から語ったもので「ハーフとして生かされる意味をわかっていない!」と感じるものが多くあり、なかでも「ハーフでなくダブルと呼ぶべき」という意見を呼んだときは「それは違う!」と強く思ったものです。

 そのようにインターネットを用いた情報収集でも十分な情報を集められなかったため、次に現実に国際結婚関係の活動をしている人々に会ってみようと考え、その面で古くから活動している団体の定例会に参加することにしました。そのときの定例会は国際離婚についての勉強会であり、内容に興味があったのですぐに参加申込みをしました。国際離婚でも原因は性格の不一致や生活習慣の違いなど一般的なものでしたが、おそらく唯一異なるのは法律が異なる国家をまたいでの子どもの親権争いなどが起るということです。

 なお、その勉強会ではまたウェブサイトを介した情報共有の話題になったのですが、そこで話し手の方にハーフと呼ばれる人々のウェブサイトについて質問してみることにしました。しかし、そのようなサイトは知らないということでしたが、それと同時に「あなたが作ったらどうですか」という予想もしなかった答えが返って来ました。

 2012年の現在、インターネットに自分の考えを載せることは簡単ですが2002年当時はそうではありませんでした。ブログ[Blogweblog〔記録〕するweblogの派生語)]もまだ普及しておらずソーシャル・ネットワーキング・サービス(Social Networking Service :SNS)も無かった時代、個人がインターネット上に情報発信するには自身でウェブサイトを作成することが必要でした。しかし、それには自身でデザインを考え、プログラムを書き、プロバイダーが提供するサーバー又は企業が提供するサーバーを借りてそこに載せるなどの手続きが必要です。また、好みのアドレス(
URL)を取得する場合は提供する企業と契約する必要があり、その手続きもあまり知られていないので、よほど書きたいことがない限りウェブサイトを作る人は稀だったので自分で作るという発想もありませんでした。

 しかし、インターネットなどから流される情報に不満があったこともあって、その一言をきっかけにウェブサイトを開設することにしました。2002年6月頃から準備を始めて7月にはある程度の内容を書き上げ、文章などを推敲するために約2ヵ月間の空白期間を作り同年9月に開設することにしました。これまで開設のきっかけは『アメラジアンの子供たち』を読んだことだと書いて来ましたが、開設に至る直接のきっかけを作ったのは「あなたが作ったらどうですか」という一言だったのです。ちなみに、その勉強会の話し手でありウェブサイト開設のきっかけを作って下さったのは『国際離婚』(集英社、2005年)の著者の松雄寿子という方でした。

継承語について:家族の結びつきを強めるための言葉

  〈ハーフらしさ〉として成長過程で植えつけられる〈らしさ〉の中でも最も典型なのが「ハーフはバイリンガル(二言語使用者)という」もので、そのような思い込みが「ドイツ語しゃべって」「英語しゃべって」という発言につながるのだと思います。しかし、バイリンガルになるか否かは家庭の事情によって変わるもののため、「ハーフ=バイリンガル」という図式通りには単純にはなりません。しかし、周りが期待する〈ハーフらしさ〉によって実際に言葉に関心を持つ人がいることも確かで、そのため結果として「ハーフ=バイリンガル」になることがあると思います。

 もっとも、言葉に関心を持つまでの道のりは平坦なものではありません。とりわけ幼少期は周りと違う言葉を話すことによって異端視されることを嫌うことがあるため、あえて言葉を話さないという選択をする子どもたちがいます。そのような子は家では母親が他言語で話しかけたときは反応しても外では他言語で母親が話しても無視することがあります。そして、周囲と違う言葉を話す親を拒絶することで周りに順応しようとするのは両親共に当該社会以外の出身者を持つ移民の子どもにも共通する特性です。そのように言葉とともに親を否定することがあるため、言葉に関心を持つまでの道のりは平坦なものではありません。

 例えば、自分の場合は周りへの順応志向によってドイツ語習得への関心が低く、何を言われてもドイツ語の習得には必要最低限の努力以外はして来ませんでした。なぜなら、それは日常的に家庭で母親が発する言葉を耳にしていたことと、その甲斐あって幼少時にドイツに行っても一週間も経てばドイツ語が話せるようになったからです。そのように始めは自然に言葉が習得できたので努力してまでドイツ語を学習する気持は生じませんでしたし、それは中学生になって以前のように言葉の切り換えが出来なくなっても同様でした。読み書きが出来ず言葉をスラスラ発することが出来なくとも母親が話す言葉が分かれば十分だと思っていました。

 近年、家族内で伝達される言葉を〈継承語〉と呼びますが、自分にとってのドイツ語はまさにその継承語です。ドイツ語は家族のつながりを保つための言葉であって、仕事や学問のために用いることのない言語です。おそらく自分のドイツ語は幼児が話すドイツ語からあまり進歩していないでしょうが、そのつたないドイツ語でも祖母や親戚に通じるため、それを恥ずかしいこととは思っていません。大学入学前に祖父が亡くなって以降、祖父と出来なかった会話を祖母とすることを目的にして学習し、その目標がある程度達成できた時、それ以上に深く勉強しようという意識は減退しました。ハーフと呼ばれる立場だからバイリンガルを目指したのでは無く、言葉が出来なければ親類とのつながりが損なわれるという危機感が言語習得の動機になっていました。

 ちなみに、この継承語教育は一般的なものではなく、それはヨーロッパでも家庭によっては上手く継承出来ないこともあるようです。例えば、ドイツの祖母にはフランス人と結婚した娘を持つ友人がいるのですが、その友人は孫と会話が出来ないことを嘆いていたと聞いています。フランスで育ちフランス語以外を話すことが出来ないために隣国に住む家族とも会話が出来ない、そのようなことは多言語教育が一般的なヨーロッパでも生じるようです。

 ここまでドイツ語の習得について書いて来ましたが、ここで改めて現在日常的に用いている日本語について書いてみようと思います。日本のみならず、その居住地域以外の出身者を母親に持つと子どもは言語習得の面で困ることがあると思います。例えば、日本の多くの家庭ではおそらく漢字の書き取りや作文の添削、朗読の練習相手などは母親が担当すると思いますが我が家のように母親が日本語を学んだ人ではなく、また漢字圏以外で育っている場合は家庭内の言語教育はあまり期待できないと思います。そして、父親にその役割を期待することが難しい場合に子供はそれを一人で行う必要があります。宿題をするもしないも自己責任、宿題などの連絡があっても母親はその内容を読めないので誤魔化すことも簡単です。そのように子ども自身が自己を律する必要があるため、特に忍耐が必要な言葉の習得に際して他国出身の親がいることが弊害になる場合もあると思います。

そこで我が家の場合はどのようにして日本語を習得したのか考えると、おそらくそこには無言の圧力による読書ノルマの存在が関係しているかもしれません。クリスマスや誕生日に父から贈られたものは常に本で、それを読むことを求められていたことが結果的には言葉の習得に役立ったのだと思います。家族全員が本を読むことを習慣にしている環境下では自分だけ読まない訳にはいかない、そのような環境が日本語学習に役立ったのだと思います。

学校生活と兄弟の存在

 ウェブサイトの開設以来「学校でイジメられたか」ということを何度となく尋ねられたことがありますが、その度に「それはない」と応えてきました。もっとも、それは「ハーフとして」という枕詞が付随した場合であって普通の学校生活で生じるような人間関係のイザコザが無かったという意味ではありません。そのイザコザが〈ハーフだから〉起きた可能性があるかもしれませんが、少なくとも自分はそのようには解釈して来ませんでした。

 〈ハーフとして〉のイジメ、それは例えばガイジンという言葉を学校内で投げかけられることと解釈していますが、そのようなことが学校内であったという記憶はありません。それはおそらく、万が一そのような言葉を投げかける児童・生徒がいたらすぐに先生に言いつけていたという事情もあったかもしれません。〈チクリ(告げ口)魔〉、そう影で言う人がいたかもしれませんが、そのようにして対処することで身を守っていたのだと思います。上級生でも下級生でも何か言われたら担任を介して注意してもらう、そのようなことが出来る状態を保っていたので「イジメられたことはありません」と応えています。

 もっとも、先生にチクったのはガイジンと言われたり母親のことでからかわれたりした場合のみでそれ以外のことは自分や同級生の力を借りて対処して来ました。中学生のときは人間関係が悪化した生徒と廊下で体を使った喧嘩をしたことがありましたが、それは自身の境遇とは関係のない問題で生じたこでしたので、それを〈ハーフとして〉の出来事とは捉えず内々で解決させていました。

 ところで、なぜ学校の先生と良好な関係を築けたのか、〈差別〉的な発言に対して先生が耳を傾けてのかと云えば、それは学校に〈人権意識〉の高い先生が比較的多かったことが背景にあったと思います。被差別部落、在日韓国・朝鮮人の人々について熱心な教育をする地域だったため差別にはひときわ敏感な小・中学校でした。ガイジンという言葉を学内で聞くことがなかったのは、おそらく被差別部落出身者や在日韓国・朝鮮人の人々への蔑称を言わせない環境下にあったことと関係していると思いますし、小学校に知的障碍の児童が通う特別学級が併設されていたことも関係あったと思います。現代的に言えば〈多文化共生〉社会にいたことが、いまの自分を形成していると思います(なお〈障害〉は不適切な語と考えるため〈障碍(礙)〉と表記しました)。

 もちろん、そのような環境でも差別問題が無かった訳ではありません。なぜなら、通名だった級友の誰が在日韓国・朝鮮人なのか、どこが被差別部落だったのかなど、学校では明言されないそれらのことを児童・生徒は知っていました。それらのことは噂として流れ、公言できない暗黙の了解として知れ渡っていました。もちろん、そのような知識が伝達されるのは、そこに差別意識がある証拠です。おそらく、そのような情報は祖父母から伝承され続けて根深く残っているもので、それは我が家も例外ではありませんでした。例えば日本の祖父はキムチを「朝鮮漬け」として嫌い、祖母は母に対して「あんたが朝鮮人(朝鮮半島出身者)だったら絶対に結婚はさせなかった」と言ったそうで、そのような差別意識は学校で打ち消そうとしても家庭内で伝承されて根深く残り続けるもののようです。

 なお、これら以外ではアイヌの人々について知れたこともハーフについて考える土台になりました。育った地域の学校では深くは習わなかったアイヌの人々のことは北海道にいる叔父が詳しく、彼の家に遊びにいった際には関連書籍を通して知ることが出来ました。そして実際に北海道を旅することでアイヌの人々が生きて来た証拠を地名として残るアイヌ語から学んだことなどが日本で〈ハーフとして〉生かされる意味について考えるきっかけになりました。『アメラジアンの子供たち』を読んでハーフについて考え始めはしましたが、そのような書籍を読む気になったのは先にアイヌの人々についての情報を得ていたためでした。北海道に行っていなかったら自分の探求は始まっていなかったと言っても過言ではありません。

 さて、そのような環境によって表面上〈ハーフとして〉のイジメのない学校生活を過ごせた訳ですが学校に比較的簡単に適応出来たのは模範となる人(モデルケース)がいたことも大きな要因だったと思います。四歳上の姉の例に従うのが自身の学校選択の基準で、それは小中学校のみならず、高校受験や大学受験に至るまで続きました。そして、結果として姉が切り開いた道を辿ったことで安全な学校生活を過ごすことが出来ました。

 初めに通った小学校は全校児童が1クラス50人程度、1学年6クラスの学校だったため、いくら目立つといっても先生達に覚えられることはなく、その学校で姉がいたことは学校制度に母が馴れたという以外あまり意味をなしませんでした。しかし、転校先の学校は1クラス40人以下、1学年4クラスと規模が小さくなったこともあり姉弟そろって先生達に覚えられました。そして姉が進学していった後を同様に進学して行ったため中学校や高校に進んでも、いつも姉の弟として目をかけられました。

 もっとも、姉の存在はそのような進路選択のみならず転校前の学校で姉が「ドイツ帰れ!」と言われたという情報や勝気な性格のためによく人と衝突したり、転校後に通った中学の部活で先輩に嫌がらせを受けたりしたという情報を得ていたので、それをもとに周囲との接し方を修正したためイジメに合わなかったのかもしれません。「日本人〈らしく〉」することで周りに極力溶け込む、それが大学までの生き方、正確にはウェブサイト開設までの生き方でした。

 ちなみに、姉が部活の先輩から嫌がらせを受けたのは、それが〈ハーフだから〉ということもあったでしょうが、おそらく都会の雰囲気を漂わせていたからかもしれません。姉の小学校のアルバムを見ると他の子は〈田舎の子〉という感じであるのに姉は都会の子という感じでした。都市と地方の差がイジメの要因になることもあるので、それにはハーフと呼ばれる立場だったということだけが問題ではなかったようです。

 なお、ウェブサイトを開設してハーフについて考えることに対し人生の模範でありパイオニアである姉は冷ややかな視線を投げかけて来ます。時間と金銭と労力の無駄遣い、バカなことをやっていると思われていると思います。しかし、それは彼女がこの問題に関心が無いのではなく、そのようなことに関心を示さず何も言わないことが生き抜く〈正しい姿勢〉だと経験上わかっているためだと考えます。幼少時から色々傷ついて来たため、そこから回避することが彼女の生き方になったのかもしれません。

 トラウマを抱えた人はトラウマ源から回避する傾向があると言いますが、それが姉の場合には当てはまるのと思います。しかし、その一方幼少時から高校時代まで適度に守られ姉を風除けにして生きて来たため、ハーフと呼ばれること、〈ガイジン〉扱いされることを問題視する余力が残りウェブサイトを開設したりすることが出来た。末っ子は比較的自由奔放に育つ場合があると思いますが、その奔放さがウェブサイトを運営し続ける原動力になっているのだと思います。

ウェブサイト運営と交流会:仮想現実と現実世界の融合

 
Die Kreuzungsstelle(ディー・クロイツングスシュテレ)は個人運営のウェブサイトですが当初から誰もが参加出来る「しゃべり場」という位置付けで運営し、そのような場にするため掲示板(BBS)を設けて自由に書き込みして貰うことで交流を促していました。そして、万が一掲示板上で言い争いが起きそうになった場合は管理者として仲裁に入るようにして訪れる人が不快にならないように心がけていました。喫茶店のように気軽に入れる場という趣旨のためウェブサイトにも喫茶店を連想出来る絵を用いています。肩肘張らず、気軽にお茶でもしながら参加して欲しいという意図にピッタリな絵だったため、それを長く使い続けて来ました。そして開設時から徐々に連絡を下さる方が現れ、ウェブサイトへの閲覧のみならず掲示板への書き込み、そしてメール交換へと交流が深まるなかで一度実際に顔を合わせる、すなわち俗にいう「オフ会」を開くことになりました。

 オフ会、つまり「(電源を)
OFF(にして集まる)会」は、たとえハーフと呼ばれたという共通点があっても見ず知らずの人々と出会うことは正直恐いものです。メールを通して知ってはいても実際に会ったことがない人とは何が起るかわかりません。また、一対一の付き合いなら何が生じても対処できますが幹事として知らない他人同士を引き合わせる役回りも演じる場合は相当に気を遣いました。掲示板上では仲よく交流出来ても実際に会うとそうなるとは限らないためオフ会の開催については当初はメール交換で信頼出来る人のみに伝え、ウェブサイト上には開催の事実も公開しないことにしました。その参加者を限定するという方法が功を奏して最初期の参加者とは深い交流を図ることが出来ました。

 そのように独自にインターネット上とそれを飛び出した交流会、ヴァーチャル(仮想現実)とリアル(現実)の交流を繰り返している中で2004年頃から日本でも
SNSが流行し始めました。SNSと言えば現在はFacebook(FB)が代表的ですがFBは2006年9月までは学生限定であり2008年までは日本語版が無かったため当時はmixiの参加者が圧倒的に多くそれにGREEが続くという状況でした。このSNSの登場はウェブサイトを立ち上げる際の煩わしさ、つまりデザインや構成を考えたり、プログラミングを習得したりプロバイダーと契約する際の初期投資などが必要無いこともあってハーフと呼ばれる共通点で会うことを手軽なものにしました。それまでヴァーチャルとリアルの間にあった高い壁がSNSの登場によって低くなったと感じます。SNSの登場と同時期にブログも浸透し始めましたが、多くの場合ブログは個人の日記を公開する道具として使われ、掲示板のように感想を書込むことは出来ても、ヴァーチャルとリアルの壁を越えた交流には不向きです。それに対しSNSの中には交流促進につながる機能を持つものがあり、それが現実の交流を可能なものとしました。なかでも、当初は招待制という参加制約もあり、それが匿名性の弊害、「なりすまし」などの問題を回避出来ると思われたことで信頼性が高まって交流活動が盛んになったと考えます。

 しかし、その一方で誰もが簡単に掲示板を開設出来るようになったために、その立ち上げた掲示板に対する責任を持つ必要性も無くなりました。また、相手が見えない文字だけの存在であるためインターネットに不慣れな人々、ネチケット(ネットワーク〔
Network〕+エチケット〔Etiquette〕、つまりネットワーク上で交流する際に必要とされる相手への思いやりに欠ける人々も参加するようになりました。完全公開制の掲示板が〈荒れる(炎上する)〉ことを経験した人々が安心できると思って参加した可能性のあるSNSも参加者が増えるにつれて同じように荒れるようになりました。そして、それはハーフとして括られる人々の間では独特の様相を呈していると思います。

 ハーフという語は経験上「国籍の違う両親の間に生れた人々」を指すときもあれば「外見的特徴から日本国に住む多くの人々から区別出来得る人々」を指すこともあります。そのため、単にハーフという語だけで括ると、そこには多種多様な背景を持つ人々が集まって来ることになるのですが、ハーフと呼ばれる人々、ハーフと呼ばれるという自身の捉え方(アイデンティティ)は集って住んだり代々受け継がれたりする性質ではなく、ときには居住地域で周囲にハーフと呼ばれる人がいない場合もあり、人によってはハーフの規準が自分自身となります。そして、仲間を求める際にはそれを基準して物事を考える傾向が生れと思いますが、そのような基準でハーフと呼ばれる他人に会うと落胆や失望、ときには〈同類嫌悪〉的な憎悪の感情が芽生えることも想像に難くありません。

 もっとも、比較的似たような境遇の人と出会った場合は強力な連帯感が生れることもあるでしょう。共通の体験が人々の連帯感を強めるのはハーフと呼ばれる人でも、そうでない人でも同じですが、とりわけハーフという括りの中で生じる共通体験は強い連帯感につながる可能性を秘めています。しかし、そのハーフという括りに過剰な期待を抱いてしまうと、その期待が裏切られたときの落胆や失望は憎悪へと向かいやすい。掲示板で批難の応酬が繰り返されたりするのは〈同類〉という期待感の裏返しから生れた憎悪によるものだったと考えます。そのように負の側面を露呈させたインターネット上の交流ではありますが共感しあえる仲間同士の間では最適な道具になりました。それは、幼い頃からの友人にさえも相談できないような種類の悩みを打ち明けられる場となったので、それを求めた人を孤独からの解放したことと想像します。

 おそらく、二十一世紀初頭の現代を生きる多くのハーフと呼ばれる人々、とりわけ外見(容姿)で判別される人々はファッション雑誌などの影響や国際化、グローバル化の影響によって好意的に見られる場合があると思います。そのため、深刻なイジメや暴力、就職活動時にあからさまな不合理な扱いを受けることは稀になっているかもしれませんし、1985年の改正国籍法以降は無国籍の問題は無くなったために制度的な問題意識を持つことはないかもしれません。しかし、そのようなあからさまな迫害経験が無い一方で、まるで〈小さな針で繰り返し刺し続けられる〉ような経験は減少していません。「ガイジン」「国帰れ!」のようなあからさまな攻撃は減少したかもしれませんが「あちらへはいつ〈お帰り〉になるのですか」のような「国帰れ!」を遠まわしに表現したようなものは相変わらず続いています。そして、そのような〈口撃〉は言った本人も気付いていない類の口撃であるため反論の仕様がなく、ただやり過ごすしかないものです。

 また、同様に本人が気付いていない類の口撃としては例えば「ハーフはうらやましい」「ハーフって綺麗でカッコいいからいいなぁ」「モデルになればいいのに!」「ハーフってほんと得だよね!」といった類の発言があります。これは相手を賞賛しているように聞こえるため問題性が気付かれませんが、これは人を外見(容姿)で判断するという問題のみならず、ある一定の特徴を持つという理由で職業を限定する発想に問題があります。つまり、「モデルになればいいのに!」という考えは本人の能力ではなく生れ持った性質によって職業を決定しようとする発想で、これは現代社会が否定する〈身分制度〉に基づいた発想、過去に職業差別の温床になったものです。

 もちろん、現代の日本社会は適正があれば誰もが望んだ職業に就けるという理想で成り立ってあるので、一部例外はあるにしても子が親の職業を継ぐ必然性はなく、継ぐか継がないかは当人の選択に委ねられるというのが〈建前〉になっています。しかし、この「モデルになればいいのに」という発想はハーフという括りにある人の特徴を一般化し、そう括られるという理由だけで当人の意志を尊重せずに一定の職業に押し込めるものです。これは貴族の子供は一生涯貴族、その対極にある賎民の子は一生涯賎民であるという身分制社会の発想と通ずるという点が問題です。

 それはモデルという職業のみならず、例えばハーフと呼ばれる人はバイリンガルであることを一般的特徴だとして通訳業になることを期待したり、より漠然的には「二つの国の架け橋」になることを期待したりするような発想も同様に個人の意志による職業選択の自由を侵害する発想であり、個人として尊重され、職業選択の自由を宣言する現代社会の理念に反するものです。しかし、そのような考えが浸透していないため〈善意〉から出たと思われる数々の発言は〈善意〉であるがゆえに反論出来ず、まるで小さな針で刺し続けるような苦痛を当人に与え続けます。そのため、そのような反論に対する防衛策として反論の難しい悩みを語り合うのに最適なツールとして当初
SNSは活発になったのだと考えます。

 さて、そのような
SNSの活用が進む中でインターネットを介して多くの人を集める Hapa Japan (ハパ・ジャパン:Hapaとはハワイ語で "White"Hawaiianの結婚から生れた人々への呼称が語源)の活動が登場しました。主にインターナショナル・スクール出身者のつながりを土台にしたその活動は活発な宣伝も手伝い、それまでにない規模でハーフと呼ばれる人々を集めることに成功しました。現在も活動しているHapa Japanは当初その運営形態も手伝って多くの人を集めることに成功していました。その活動は個人運営のウェブサイトでは不可能な集まりを開催出来ているので、人集めに苦労した経験からその集客能力をうらやましく思ったものです。多くのハーフと呼ばれる人々が一堂に会して〈何か〉の力に発展させたいと当時は考えていたので、その活動に対抗心を燃やしたこともあります。もっとも、その対抗心は集客力にあったというよりも、自分達が「ハーフの代表」のように振舞っていたことも関係しています。日本社会の仕組みの縮尺ではないインターナショナル・スクール出身者に、日本で育った「ハーフの代表」のように振舞われたのは、正直あまりいい気がしませんでした。

 それでは、なぜそう思うのか、ここでインターナショナル・スクールに通うのと文科省指導下の学校(以下、一般校)に通うことで生じる違いについての考えを補足的に書いてみようと思います。一度参加した初期の
Hapa Japanのイベントからはハーフと呼ばれる人々の中に生じる顕著な差異について気付くきっかけを得られました。インターナショナル・スクール系の人々と接してみたとき、どのような制度の学校に通うかによってハーフと呼ばれることに対する意識に大きな差が生れるとわかりました。その違いは例えば一般校に通えば身に着けざるを得ない各種の〈対処法〉、〈処世術〉を、これまで出会ったインターナショナル・スクール出身者の人々はあまり身に着けていないように感じます。対処法、処世術と表現すれば肯定的な印象を受けますが、それは〈慣れ〉や〈諦め〉とも呼べる類のものです。その身に着けざるを得なかった処世術から生れるそのような〈諦め〉の感情を幼少期からの経験で身につけているため、自分の過去に向き合い、場合によっては傷をえぐるような活動には無意識の抵抗感が生れるのだと考えます。

 そして、小学校でイジメを受けた人でも中学校に入って周囲がファッションなどに目覚める頃になって「ハーフはうらやましい」と言われる可能性もあり、その際、そのような態度の豹変に「何を今更」と思って反発するか、その周囲の反応の中で平穏な生活を選ぶか、そのどちらかの選択肢が与えられたら多くの人は後者を選ぶのでしょう。周囲が寄せる〈好奇(好意)〉の感情は、それまで〈否定〉されてきた人にとっては自身を肯定的に捉える機会のため自己肯定を持てなかった多くの人が選ぶ道なのかもしれません。

 その一方で当初インターナショナル・スクール出身者や海外育ちの人々が積極的だったのは、そこに〈同窓会〉的な側面があったとからだ思います。その人たちにとってハーフと呼ばれる人々の集まりは学校時代の交流の延長で当たり前のことだったのかもしれません。しかし、一般校で周囲にハーフと呼ばれる人々が居なかったり極々少数だったりした場合はハーフと呼ばれる共通点で集まることは〈非日常〉の経験であるため、そこに強い動機、特別な理由が必要になったと思います。そしてまた幼少時からの生活の中で親友と呼べる仲間が既にいると〈仲間作り〉の目的でハーフと呼ばれる人々と会う必要性は感じず、それがハーフと呼ばれることで集まる原動力にはならなかったと考えます。インターナショナル・スクール出身者に比べて一般校の出身者が少なかったのは、そのような理由があったものでしょう。

 さて、そのような違いを考えたとき自身の行う小規模の交流会は小規模にしか出来ない集まりがあるため規模の大小で対抗心を燃やす必要はないと段々気付いて行きました。その場に居合わせた人々が顔と名前を一致させることを心がけていた自身の集まりとの目的に気付いたのですが、それに気付いた頃には交流会を開く意欲が減退していました。そして、その直接の原因は交流会を男女の出会いの場と錯覚する参加者が出て来たからです。

 実際、「ハーフに会いたい」という人のなかには「カワイイ(綺麗な)」ハーフに会いたい人がいます。「ハーフはカワイイ(綺麗)・カッコいい」という情報に左右されるのはハーフと呼ばれる人々も同様です。そのため、ハーフと呼ばれる人を集めた交流会を催すと、その情報に惑わされた人々が集まって来るのでしょう。先述の
Hapa Japanではそのような目的の参加者がおり、それがトラブルの現況になって主催者が苦労したと人伝には聞いていたのですが自身の主催する小規模の交流会にそれを期待する参加者が来るとは想像出来ず、そのような人々が参加者にいると気付いたとき、交流会を中止することを決断しました。もっとも、交流会中止の理由はそれだけではなく、ウェブサイトの運営に加え交流会の開催を一人で取り仕切ることが出来なくなったためでもありました。

 なお、2012年現在、ハーフと〈呼ばれる〉共通点で集まる人々にも変化が現れて来ました。2002年9月からの
Die Kreuzungsstelleと2004年頃から活動を開始したHapa Japanを第一世代とするなら、2005年頃にHapa Japanから派生したHarts(ハーツ:ハーフ芸術家集団〔活動終了〕)とミックスルーツ(mixed-roots/routes:2006年以前はHapa Japan 関西支部)が第二世代、2008年頃から活動を始めたHafu Project(ハーフ・プロジェクト)が第三世代で現在は第四世代の活動(ハーフコミュニティー交流会など)へと以降し、インターネットが普及し始めた頃の世代に比べて第四世代の活動ではヴァーチャル(仮想現実)とリアル(現実)の融合が進んでいます。それは、おそらくスマートフォン(Smart Phone)が普及し、そのアプリ(Application)としてFBtwitterが組み込めることも関係していると思います。それまで、主に部屋からつないでいたインターネットが部屋の外でも使えるようになったこと、ユビキタス(ubiquitous)化が若い世代で進んだことがヴァーチャルとリアルを融合させたのだと思いますし、もはやそれに慣れた世代はヴァーチャルとリアルのような区別すらせずに、それらを単にリアルだと捉えているのかもしれません。そして、そのような環境が、第四世代の活動に影響しているのだと考えます。

マスメディアを使った広報活動:編集権を握ることの重要性

  仮想現実と現実世界をつなぎ合わせる作業はインターネットを使った交流会の開催のみならず、インターネットという電子媒体と旧来の印刷媒体の融合も意味しています。そもそも自身のウェブサイトを開設した一番の目的はハーフと呼ばれる人々の〈声〉を現実世界に届けることで社会(世間)の眼差しを変化させることでした。そして、その延長に交流会を催して活動に賛同する仲間を集めることを目的としていましたが、そのような目的があってもウェブサイトの存在が知られないと目的は達成できません。〈ハーフ〉と呼ばれる人の気持ちには多くの人が注目しない当時にあっては、あえてハーフと呼ばれることについての問題提起を行うことで注目を集めて検索者を増やしハーフと呼ばれる人々の声をより多くの人に届けることを考えました。そこで新聞に投稿するという方法を思いつき2003年7月、当時購読していた『毎日新聞』〈朝刊〉「みんなの広場」にコラムを投稿して同月28日に「いったい私はナニ人なのだろう」という題名が付いて投稿は掲載されました。

 「いったい私はナニ人なのだろう」、投稿当時この問いへの回答は既に得ていましたが、これが一番わかりやすい問題提起だと考え、あえて悩みが現在進行形のような文章に仕上げ、そのような投稿をすることによって〈論を興(おこ)す〉ことを試みました。それはまた、あえて悩んでいるように書くことでハーフを賞賛するような風潮に一石を投じようという意図もありましたが、この投稿はそのような意図とは異なった問題、〈編集権〉について考えさせるきっかけになりました。

 もともと『毎日新聞』に掲載された投稿文には二つの目的がありました。一つは先に書いた通りハーフと呼ばれる人に関する〈輿(よ)論(ろん)〉を喚起するためで、もう一つは「ハーフかダブルか」という議論に一石を投じる目的がありました。そのため、「自分はナニ人」という問いに加え原稿には「この頃はハーフでなくダブルと言うらしいが、私はハーフの方が気に入っている」という文を盛り込むことで「ダブルと呼ぶべき」とする人々に対抗しようとしました。しかし、投稿掲載の数日前に担当者から掲載内容について「掲載文が長くなるので、この一文を削っても良いですか」という趣旨の電話連絡が入り、その「長くなるから」という理由に納得してその一文は削除することにしました。断ることで掲載されなくなることを怖れたためにしぶしぶ担当者の申し出を受入れたのですが、その後、その削除依頼の真のネライがわかりました。「いったい私はナニ人なのだろう」と題された投稿が掲載された10日後、今度は「あなたはハーフではなく『ダブル』」(2003年8月12日)と題した応答投稿が掲載されたのです。そして、これがハーフを好むという一文の削除依頼の理由だったと考えます。

 つまり、その担当者にとってハーフという語を好む〈当事者〉がいる事実はダブルという語を一般化させようとする自身もしくは周囲の考えにとっての弊害でしか無かった。そのために当事者の同意を得させて「ハーフという語を好む」という箇所を抹消させた。そして、そのネライ通りの応答投稿が来たとき「あなたはハーフではなく『ダブル』」と題して掲載し、ダブルという語の普及を援護しようとした。このように考えるのは、現在はわかりませんが、当時の「みんなの広場」の投稿文の表題は担当者が記事を読んで書くという形式だったので、そこには必然的に担当者の意図が入り込んでいるのは明白だからです。大学の学部時代に「メディアリテラシー(
media literacy):新聞などのメディアの読み解き方、情報の洪水からの身の守り方」を学び、メディアが中立公平でないことは知識として持っていたので、そのようなことが生じることは覚悟していましたが、実際に自身がその暴力にさらされるとまでは思わなかったので、その投稿が出たときはただ憤りを覚えました。「ハーフからダブルへ」という流れを堅持しようとしたその担当者、もしくは新聞社の行為から、どのような報道機関であってもメディアには暴力的な側面があることを再認識させられました。

 しかし、そのような苦い経験をしても、やはり流通している大きな印刷媒体に掲載されることは魅力的なことです。そのため、2005年、今度はメディア側から取材依頼が来たときはそれを受けることにしました。『毎日新聞』への投稿はこちらから投げかけたものであったのに対し今度はメディア側からの取材依頼です。ハーフと呼ばれる人々の声を伝えるにはその機会を逃すわけにはいかないと考え、朝日新聞系の雑誌『AERA』からの取材を受けました。

 その取材者は「若い世代の方たちの多方面での活躍が目立っていることや、ハーフの方たちのコミュニティができていることに注目し、今の日本は、『ハーフの方たちを特別視』していた過去に比べて、社会がどう変わってきているのか」「今までよりさらに身近で注目されるにつれ、ポジティブなアイデンティティを持つ人が増える一方で、いまだに特別視されることがあるのか、日本の社会は住みやすいかなど」を取材したいということでした。
なお、ここでいう「ハーフの方たちのコミュニティ」とは
SNS(主にmixi)を使ったコミュニティ活動のことを指しています。当時はDie Kreuzungsstelle(ディー・クロイツングスシュテレ)もウェブサイトに加えてSNS内に独自のコミュニティを設けて参加者を募るほどSNSを用いた参加の呼びかけが一般的で、そのようなこともあってマスコミ関係者の目に留まったのだと思います。

さて、この取材に際して担当者は交流会の場も取材したいということでしたが、それには参加者全員の承諾が必要だと考え、それを得る時間的余裕が無かったために代表してインタビューを受けることにしました。「『ハーフの方たちを特別視』していた過去」「ポジティブなアイデンティティ」「日本の社会は住みやすいか」という箇所に〈危うさ〉や〈怪しさ〉を読み取りつつ、また「ハーフの方たち」と言う時点で既に特別視している事実に無自覚なことには目をつむって取材を受けることにしました。特別視しているからこそハーフという〈呼び名〉がありコミュニティ活動も珍しいもと映っている、そのことに無自覚な人による取材は断るのが幸いなのでしょうが声を世に届けるという目的があったため取材を受けることにしました。

 もっとも、その取材を受ける前から出来上がって来る記事はハーフを礼賛するものになると予想はついていました。そして、受けても受けなくても自身の声、おそらく〈ネガティブなアイデンティティ〉とでも呼べるそれは無視される可能性はありましたが、その取材を受けない訳にはいかないと強く感じました。なぜなら、その取材者は先に
Hapa Japanを取材していたからです。先の依頼文にあった〈ポジティブなアイデンティティ〉とはHapa Japanの取材後の印象だということを数回のメールのやり取りで聞きだしていたため、その取材を断れば記事はハーフと呼ばれる人々を礼賛するだけになる危険性がありました。そこで、そうはならないようにネガティブなアイデンティティ代表として話をして来たのですが出来上がった記事は予想通りのもの、『強みになったハーフな個性 芸能界でもスポーツ界でも活躍』(2005年11月23日号)というものでした。ただし、「(過去に比べて)強みになったハーフな個性」の過去がハーフと称される人々全体ではなく取材した対象者の過去に限定されたことは不幸中の幸いだったと思っています。

 そのように予想通りの記事が掲載されたのですが、一応取材者には記事内容について抗議をしました。「〈ハーフな個性〉は強みではなく現在でもそれが弱みになる人もいると何度も伝えたにも関わらず、ナゼそのような表題、ハーフと呼ばれる人々を礼賛するような風潮を助ける表題をつけたのだ」と。取材者は依頼文の文面から危うさはあっても会ってみると真摯な態度で耳を傾けてくれたため信頼して色々話したにもかかわらず、そのような表題になって裏切られた気持ちがしたので抗議をしましたが、そのような抗議が無駄だということが取材担当者の弁明からわかりました。なぜなら、見出しの文面を指示したのは担当者の上司、編集側の人間だということだったからです。駆け出しのライターに過ぎなかったその記者の意図は編集者によって捻じ曲げられた、大学で学んできたメディアの暴力がそこにも作用していることを改めて実感しました。そして、それ以来〈編集権〉を自身で握ることにこだわるようになりました。

 編集権、すなわち編集する権利を自身が握ることは自らの主張を都合よく捻じ曲げられないために重要なことです。新聞社側は過去にあった外部からの〈事前検閲〉(掲載前の記事確認、検閲者に不都合な場合の記事書き換え・削除命令)を排除するために編集権を主張するのでしょうが、この編集権を〈錦の御旗〉にして記事内容を確認させないことで取材対象者にとって不都合な内容でも掲載するのが現在のマスメディアです。そもそも自らがウェブサイトを開いているのは編集権という考え方を大学教育から学んでいたからでもあります。ハーフと呼ばれる経験をしていない人による〈声〉の代弁は見当違いのものになる可能性もあったので、ウェブサイトの重要性を認識し、実際に製作したという経緯があります。

 なお、この編集権は雑誌や新聞に限ったものではなく研究者を自認する人々にも言えることです。それらの人々は客観的な事実の伝達や分析を自身が行っていると自負しているかもしれませんが、そもそも客観的な伝達というものがないことに多くの人は無自覚です。新聞の報道記事のように〈事実〉を伝えるような記事であっても、その出来事を伝えるか否か、文面の長さ、掲載場所などの決定には〈主観的〉な判断が入り込むものです。それと同様にその主題を研究するか否かの判断にも研究する当人の問題意識という主観が入り込むように客観的であることを〈錦の御旗〉にした数々の行為は、実は主観的な営みでしかないのです。そして、それを客観的であると信じさせて自らの主観的な営みを正当化させようとするのが既存のマスメディアと呼ばれる雑誌や新聞、テレビやラジオや、そこに自身の考えを発表する研究者などの発信者なのでしょう。

 インターネットが普及した現代は発信者が増えたというものの、依然、より多くの人々に情報発信が出来るのは既存のマスメディアだという事実は変化していません。そして、その中で編集権を握っているのがハーフと呼ばれる人々ではなく主流派の考えでしか物事を見ない人々であるという事実も同様に変化していません。そのような現実と向き合いつつ、ハーフと呼ばれる人々の声を社会(世間)に届けるのが
Die Kreuzungsstelle(ディー・クロイツングスシュテレ)の取り組みであるため、どのように伝えられるのかについては人一倍注意するようにし、その注意喚起も怠らないようにして来ました。

世代とルーツから生れる感じ方の違い:多感な時期の経験

   先にハーフと呼ばれる人々の中で生じる差異には学校制度の違いがあることを書きましたが、当然のことながらそれぞれが背負うルーツ(家族的つながり)と育った時代によっても差異が生じるものです。これまでハーフと呼ばれる人々を結び付けようとしたため互いの違いを強調することは避けるべきだと考え、書くことを避けて来ましたが、違いを分かり合うことが相互理解につながると考えるため、これまで感じたことを赤裸々に書くことにします。

 ウェブサイトを開設し、ハーフと呼ばれる人々について深く考えるようになって10年、年々世代の違いを感じるようになりました。ほんの3、4年生れた時期が違うだけもこんなにも違いが出るのかと感じることもあります。とりわけ第四世代の活動が活発化している2012年現在に至ってはその違いは顕著になって来ました。

 もっとも、そのような世代差で生じる感じ方の違いは一般的なことなのでしょう。しかし、ハーフと呼ばれる経験を基にした活動をする人々が一定の世代に偏り、それが1970年代後半から80年代前半に生れた人々に偏っていることに気付いたとき、そこには過ごした時代の影響があるのだと思いました。

 1970年代生れの私のような世代の人々は日本ではバブル経済崩壊後の不況の中を生きています。幼少期は右肩上がりの経済情勢のなかで育ち、思春期を迎えた頃は不景気、そして就職時には「就職氷河期」と呼ばれる就職難の中で就職活動をしました。そして同時に世界的には冷戦の終結によって勃発した各種の紛争が発生していたように世界的に混迷を極めた時代に思春期を過ごしています。なかでもドイツにルーツのある者にとって冷戦とその終結はベルリンの壁の崩壊と東西ドイツの統一という具体性を帯びていました。民族の〈分断〉から〈統一〉へ、同様に分断した国家が近隣にある日本で育ったことも影響してか民族をめぐる世界中の出来事はとても身近に感じられるものでした。

 もちろん、戦争はこれまで度々も繰り返され、景気の変動も繰り返し訪れています。しかし、第二次大戦後の戦争に限って言えば冷戦構造下でのそれと冷戦後のそれは異なっています。つまり、冷戦時のように〈社会主義〉と〈民主主義〉、〈共産主義〉と〈資本主義〉の構造によって東側諸国と西側諸国のような二極の対立で説明されていた戦争と異なり、1990年代の戦争は民族や宗教という古くて新しい枠組みが戦争の背景として語られるようになりました。

 ここで東西冷戦時代について説明するために身近な具体例として民間航空機の飛行航路の問題を例として挙げようと思います。現在はそのような区別はありませんが、1990年以前にドイツへ行くには割高だが最短の〈北回りルート〉と割安だが長く時間がかかる〈南回りルート〉がありました。そして利用していたのは北周りルートで、ドイツ航路では成田空港を出発してアンカレッジ空港(アラスカ)に給油のため着陸し、そして再びアンカレッジ空港から離陸してハンブルグ空港、その後航空機はフランクフルト空港へと飛行するルートです。それに対して南回りルートは東南アジア方面に向かって途中いくつもの空港を経由して西ヨーロッパに向かうもので、北周りルートは約18時間、南回りルートは24時間以上かかると言われていました。現在は直行便でフランクフルト空港まで12時間程度で行けますが当時は18時間が最短でした。そして、そのようなルートが設定されていたのは当時が冷戦状態で現在のようにロシア上空を飛行することが出来なかったからです。

 冷戦時代はソヴィエト連邦(現:ロシア共和国を含む)の上空が飛べず、万が一領空に入りでもしたら民間機でも戦闘機によって撃墜される時代でした。なかでも1983年に大韓航空機が撃墜された事件は当時5歳だったにもかかわらず鮮明に覚えています。そのようなことがある時代だったため西ヨーロッパへは南北いずれかの迂回路で飛ぶしかなかったのですが、1990年代、東西冷戦が終結後はロシア上空も飛べるようになりました。領空を飛行しても撃墜する大きな国家が消滅したという事実は渡航に際する緊張感を緩和してくれました。そのような緊張感の緩和がすなわち〈平和〉の象徴でした。

 しかし、東西冷戦の終結は平和の訪れではなく、それは新たな混乱の幕開けでした。コソボ紛争やルワンダの虐殺事件のような〈民族紛争〉と呼ばれる古くて新しい戦争が1990年代には世界中で頻発し、それがメディアを通じて伝えられました。民主主義と社会主義という対立構造のなかで覆い隠されていた民族や宗教の対立構造による経済紛争が1990年代以降になって頻発します。平和の始まりに思えた冷戦終結は新たな紛争の時代の幕開け、1990年代という時代はそのような時代でした。ちなみに、2001年の9・11同時多発テロとそれへの報復として起こされたアフガニスタン戦争、イラク戦争(第二次湾岸戦争)も90年代に起きた民族紛争の延長線上にある出来事です。

 ここでまた東西冷戦についての思い出を1991年の夏のドイツ訪問をもとに書いてみようと思います。それまで、数年に一回のドイツ訪問では祖父母の家に留まることで満足していましたが、その夏は別の場所に行きたいと思っていました。そして、東西冷戦終結のシンボルとして何度もテレビに映ったベルリンの壁の跡を見てみたいと思い、家族と伴にベルリンを数日訪れることが出来ました。

 1991年、ベルリンの壁の崩壊から2年余りのベルリンは、まだ東西分断時代の面影を残していました。それまで訪れていた西ドイツの都市のように華やかな雰囲気のある西ベルリンに対して東ベルリンは重苦しい雰囲気の街、暗い街という印象でした。騒々しい西ベルリンに比べて静かな東ベルリン、資本主義と共産主義という経済構造の違いで生れた経済格差の証跡が当時の東西ベルリンには残っていました。そして、そのような格差を目の当たりにしてみたときテレビで報じられた出来事、ベルリンの壁の崩れた隙間を抜けて西ベルリンに入った東ベルリンの人々の気持ちが少し理解できました。〈同じ〉民族にもかかわらず西と東では大きな経済格差が生じている、東ドイツの人々にあった不満はそのような点から生じたのかもしれません。しかし、その経済格差は東西ドイツ統一後も直ぐには解消されず東側の失業問題にもつながりました。ちなみに、旧西ドイツからベルリンまでの移動手段は鉄道だったのですが、そこにも東西格差の影響が見られました。現在は1時間半ほどで行けるその行程が当時は3時間以上かかりました。それは、旧東ドイツは線路状態が悪く、西ドイツ製の車両でも速度を出すと脱線の危険性が高かったからでした。

 さて、そのような短期間では埋まらない東西格差はやがて人々の不満の種となり、そして、それが「ネオナチ(neo Nazi)」の出現に結びついたと考えます。民族紛争が盛んに報じられた同じ頃、ドイツ国内ではネオナチについても報じられるようになりました。東西ドイツ統一の〈負の側面〉という印象を受けるその運動は第二次世界大戦終結後から45年間覆い隠されていた問題を再登場させたに過ぎないとも言えます。

ネオナチとは1930年代にヒットラー
(Adolf Hitler:1889-1945)が率いたNSDAP(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei 別称:Nazis 訳:国民社会主義ドイツ労働者党)の思想に共鳴する移民排斥の思想を持つ若い世代の運動です。このネオナチの起こす事件は主に旧東ドイツに多かったのですが、それが旧東ドイツに偏っていたのは東西ドイツの経済格差によるところが大きいと考えます。そして、彼らはその不満のはけ口を〈期間労働者(Gastarbeiter)〉として西ドイツに受入れられた〈非ドイツ人〉の労働者に対して向けました。

 ナゼ彼らはそのような敵意を向けたのか、それはドイツ人の国に住むドイツ人の自身らには安定した収入が無い一方で非ドイツ人の彼らには安定収入があるという事実が理不尽に映り、その不満のはけ口を目に見える異質な人々に向けたのでしょう。1930年代の政権獲得後のヒットラーは富裕層を含む全ユダヤ人を標的にし、1990年代以降のネオナチは移民労働者を標的としました。ナチとネオナチ、その排斥の対象は異なっても重要だったのはドイツ人か否か、とりわけ外見的特徴で判断できる〈ドイツ人性〉が攻撃対象の選別方法になったと考えます。

 ところで、そもそもドイツ人とはどのような人のことでしょうか。〈金髪碧眼〉がドイツ人なのでしょうか。それとも「ドイツ人の〈血〉」を受け継いだ人がドイツ人なのでしょうか。それともドイツ国家に属する人(国籍保有者)が〈ドイツ人〉なのでしょうか。

 おそらくドイツ人といえば〈金髪碧眼〉の容姿だと思う人がいるかもしれません。しかし、ヒットラーの時代からドイツには髪の色が黒い人や虹彩(目の色)が黒っぽい人もいたようにドイツ人とは多種多様な人々の集合体でした。ドイツ国家は様々な容姿を持った人々の集合でユダヤの人々もドイツ国家に属するドイツ人でありドイツ国家で重要な地位にもついていました。しかし、彼らの存在が気に食わなかった一部の人々がヒットラーの思想を利用し、彼らから富を収奪する過程で〈ユダヤ人〉と〈ドイツ人〉という区分が明確にされて行きます。「国家の〈所有者〉であるドイツ人には職がないのに〈非ドイツ人〉の彼らは安定した収入がある」、ユダヤの人々をドイツ人という枠組みから排斥して〈純粋〉なドイツ人によるドイツ国家を作ろうというヒットラーの計画は、第一次大戦の賠償金や大恐慌などで経済が混乱していた時代の若い世代の心の琴線に触れたのでしょう。そして、そのような排斥思想が90年代のドイツ、とりわけ旧東ドイツの一部の若者の心をつかんだのだと思います。

 もっとも、そのような問題は旧東ドイツに限ったことではなく西ドイツにもあることでした。とりわけ独自の文化を守り続けるトルコ系移民への冷ややかな視線は西ドイツでも感じられるものです。それが暴力的手段になるか否かは経済的に満たされているか否かが重要であって、ドイツ人が経済的に満たされている旧西ドイツでは大きな問題を興す集団がいなかったこと、そしてヒットラーを礼賛することを教育や法律で取り締まって来たために問題が表面化していないだけで実際は自身と異なるものへの偏見は旧西ドイツでも存在しています。

 また、このような問題はドイツのみならず日本にも存在することで「国家の〈所有者〉である日本人には職がないのに〈非日本人〉に彼らには安定した収入がある」というような問題意識は、近年インターネットである一定の〈非日本人〉に対する攻撃を繰り返す〈ネット右翼〉と呼ばれる若い人々の精神構造にも似たような傾向があると考えます。インターネットが普及したのはここ15年であり20代、30代から普及し始めたと考えたとき、ネット右翼と呼ばれる人々はおそらく70年代、80年代前半生まれの人々、日本経済の低迷の中で生きる人々でしょう。そのようにある一定の人々に対する不満の吐き出し方は、どこか1930年代のナチスドイツ、1990年以降のネオナチの運動と似ているように思います。

 さて、そのように1990年代以降の世界状況で思春期を過ごして来た人々は、当時既に大人になっていた人々や幼かったり生れていなかったりした人々に比べて混迷の時代を肌で感じることが出来たため、いろいろな問題意識を持つようになったのかもしれません。とりわけ民族や宗教が注目された時代だったことは、民族問題とも関係あるハーフと呼ばれる人々の問題意識にも影響したと考えます。

国際結婚と国家間関係:日本とドイツ

   ここで国際結婚に興味を持つ人から聞かれたことの一つである両親の出会いについて書くことにします。そうは言っても両親の馴れ初めは彼らが大事にしている想い出であるため、彼らがなぜ結婚出来たのかについての考えを書こうと思います。

 現代の結婚は個人と個人の結びつきという考えが主流であり日本でも1970年代頃からお見合い結婚から恋愛結婚にその主流が移行しました。国際結婚の増加も、この結婚慣習の変化が関係していることは想像に難くありません。家同士をつなぐのが結婚という意識から個人と個人の結びつきへ、そのような結婚観が普及して行ったからこそ国際結婚も増加するようになったのだと思います。

 もっとも、国際結婚では相手の国の日本での印象や国家間の関係によって結婚が反対されることはよくあることです。そして、それは大正時代や昭和初期に生れた人、ましてや都市部以外の場合だと強く現れるのだと思います。例えば、森鴎外『舞姫』のように留学先で知り合っても結婚せずに恋人と別れることがモデルケースだった時代は留学先の恋は「想い出」にするのが理性的だと考える人もいたと想像します。もちろん、留学や赴任先で知り合い、子供を作ったという話は明治期にもありますが、それも特別な人の場合であり、また横浜や神戸、長崎のような開港都市では見られる例であって一般的なことではありませんでした。しかし、戦後、航空機の発達や海外との貿易の進展により、それまで以上に多くの人々が国外に出たり入ったりするようになったことで国際結婚も増えるようになりました。ドイツ政府からの奨学金で留学した父が母と出会うことになったのは、そのような世界の状況と関係あるのだと思います。

 ところで、なぜ父はドイツ留学を選んだのか。第二次世界大戦後の世界の最先端はアメリカに移行したのにどうしてドイツへ留学したのか。それには父の専門にとって当時はドイツが先進だったことに加え、父の父、すなわち日本の祖父の時代の流行によるところが大きいと考えます。 第二次世界大戦以前までの世界ではドイツを初めとしたヨーロッパ諸国へ行くことが日本の学生の夢だったと聞きます。当時アメリカは二の次で、文化の中心はヨーロッパにあるという考えが浸透していたといいます。そしてドイツは近代日本の制度形成に大きな役割を担った国であり、例えば明治憲法(大日本帝国憲法)はプロシア(ドイツ)に学び、陸軍もドイツから様々なものを学んでいました。日独伊三国同盟の推奨派が主に陸軍出身者だったのは、明治期以降の日本とドイツの結びつきが影響していたのだと言われています(ちなみに海軍はイギリスから制度を学んでいました)。そのように戦前はドイツを始めとしたヨーロッパに人々の目は向いており、英語も現在はアメリカ英語(
American English)を日本の学校では習いますが、戦前はイギリス英語(British English)を習っていました。そのような戦前世代に育てられ、とりわけドイツに関心のあった親をもったことが父の関心をドイツに向けさせたのだと思います。祖父はドイツ留学もドイツ旅行も経験していませんがドイツ語が話せたほどドイツに関する知識があったと言います。おそらく、そのドイツの知識が父に伝播し、ドイツに留学するのみならず、ドイツ人との結婚を踏み切らせたのかもしれません。

 さて、ここまでは日本側の事情について書きましたが、次にドイツ側の事情についても書こうと思います。先に日本の祖母が母に「朝鮮人だったら結婚を許さなかった」と告げたと書きましたが、その逆のパターンがドイツの祖父で彼はユダヤ人への偏見があり、ユダヤ人との結婚は許さないという考えを持っていたと聞きます。しかし、ユダヤ人との結婚は許さない姿勢だった祖父が日本人は良いとしたのは、おそらくそこに日本とドイツがかつて同盟国として共に戦い、共に負けたという歴史が関係したからだと想像します。もちろん、父の人柄や将来性というものも考慮していたと思いますが、何よりも「ユダヤ人ではない」ことが重要だったのでしょう。

 もっとも、そのような祖父の〈負の側面〉とでも言う情報を得ても私は彼を嫌いになることはありません。その時代の若いドイツ人に特有のことであるという理由ではなく、彼が世界で一番私を可愛がってくれたという個人的な思い入れによるからです。日本でガイジン扱いされる私にとって唯一安心できた場所、誰の視線も感じず普通の子どもとして過ごせた場所はドイツの祖父母の家だったため、そのような〈負の側面〉を知っても彼への気持ちが変わることはありません。

 さて、そのように国際結婚について考えたとき、そこでは当人達のみならず、その周囲の人の存在はもちろん、その当人達の出身地域や出身国の相互関係も大きく影響するものだと思います。そのような国際関係はハーフと呼ばれる子ども世代にも影響しており、戦争体験による他国へのイメージはわかりやすい例だと思います。以前出会った年配の人との話ですが、初めは不親切だったのがドイツにルーツがあると話したところ急に態度が好転したこともあります。〈ハーフ=アメリカ系〉だと思っている人が多かった時代、かつての敵国であり主な占領国だったアメリカと関わりがある者には好感が持てなかった。しかし、それが同盟国であり共に敗戦国だったドイツだったため、その人は親近感を持ったのかもしれません。いまの若い世代はアメリカへのわだかまりは無く、逆に憧れを抱く人の方が多いかもしれませんが戦争や占領を経験した人はアメリカに対してわだかまりのある人がおり、そのような微妙な国際関係が個人にまで影響するのが国際結婚の特徴だと思います。

Nikolausから兵衛へ

 2010年にそれまで使っていた
Nikolaus(ニコラウス)という名前から本名である岡村兵衛を名乗るようになりました。以前から訪れている人はNikolausをミドルネームだと考えているかもしれませんが、これはウェブサイト開設用に採用した名前であって子供の頃から使っているミドルネームではありません。しかし、このNikolausNikoと省略して呼べて馴染み易いためか、たとえ本名を名乗ってもウェブサイトを通して知り合った人からは名前で呼ばれます。そのため、いまではNikolaus(Niko)は〈字(あざな)〉だと考えるようになりました。そして、ネットを介して知り合った人には自己紹介でも両方を使い分けるようにしています。しかし、本名とペンネームでは発言の信頼性が異なるため、活動を長く続ければ続けるほどこの使い分けに疑問を抱くようになりました。

 それでは、なぜ長くペンネームを使っていたのかといえば、それはその使い分けによって公私を分けたいという想いがあったからでした。インターネットを公的空間として、それ以外の場を私的空間としたとき、その公私の使い分けによってヴァーチャルとリアルを使い分けようと思っていました。もともとインターネット上だけの存在として
Nikolausを設定していたので、その名前を実際の人付き合いの場で用いることを当初は考えていませんでした。Nikolausに〈ハーフ〉と呼ばれる自分を担当させて岡村兵衛はそこから自由な存在として生きる、そのような意図で二つの名前を使い分けることを考えていました。

 しかし、2008年3月頃からウェブサイト内に写真を掲載していたため
Nikolausと岡村兵衛は徐々に一致し始めて行きました。その頃から本名を名乗ることを考え初めていたのでしょうが、それ以降もネット上に本名を書き込むことには抵抗感がありましたが、そのような気持を変えさせたのはHafu Projectとミックスルーツの主催者達の存在でした。そこで彼(女)らは本名を名乗っていたのですが、その一方で自分は本名を隠して活動をしていなかったことに罪悪感のようなものすら感じるようになりました。もっとも、本名を名乗ることを決意させたのは、それまで抱いていた〈恐怖心〉が薄れたからというのが大きな理由でした。
 
 それまでインターネットに本名を載せなかったのは、そのことによって自身を含めた家族に累が及ぶことを怖れたからです。いまから考えたら自意識過剰なのでしょうがウェブサイトは完全公開性で誰が見ているかわかりません。実際、かつて『毎日新聞』に本名で投稿した際は実家の両親が購読者に声をかけられたと聞いて、本名は名乗で公的な場で発言することの煩わしさを知りました。そのため『
AERA』の取材を受けたときは「Nikolaus(仮名)」として取材内容を掲載して貰うことにしました。

 しかし、近年
FBのように原則本名で登録することを求めるSNSが登場したことためかインターネット上に本名を載せることが少し一般化しています。そして、同じような方向性を目指す活動が出て来たこともあって本名を名乗ることに抵抗感を抱かなくなりました。実際、本名を名乗ってから身の周りに大きな変化はありませんでした。思っているほど誰も注目していない、いかに当時の自分が自意識過剰だったのかわかりました。

〈自分探し〉の熱から冷めたとき:継続的活動の難しさ

 〈当事者〉による気付きから生れた活動には活動の継続期限があると考えます。そして、ひとつの活動は3〜4年で終わるというのが自身の経験を踏まえたうえでの考えです。例えば、この10年、
Die Kreuzungsstelle(ディー・クロイツングスシュテレ)の内容は3〜4年周期で少しずつ変化して来ました。開設当初に設けていた掲示板もいまでは閉鎖し、ほぼ同時期に交流活動も中止しましたし、当初は熱心だったウェブサイトの更新も現在ではあまり熱を帯びたものでは無くなっています。年に数回更新するようになって以降は、他の当事者の活動の影に隠れるようなヒッソリとした活動になったため、新しく活動を始める人々の情熱をうらやましく思いながらも、勢いだけでは何年も続かないだろうなと冷めた眼差しを向けてしまいます。もっとも、その一方で英語版のサイトを作ったり、書評を掲載したり、また著作権者が明確な自身のコラムをPDFファイルに変換して電子書籍時代に対応させたりして来ました。

 もちろん、自身の活動も同じように勢いだけで始めた活動であり当初は公算もなく、ただ現状への不満から始めたものでした。しかし、様々な経験を経た現在では、そのような勢いだけでは長くは続かない、いずれ息切れする日が来るとわかりました。息切れ、表現を変えれば〈疲れる〉ということです。

 ハーフと呼ばれる状況をその眼差しを向ける社会の中で問題提起すると、よほど強靭な精神の持ち主で無い限り、いずれ精神が疲弊するときが来ると考えます。人によっては「傷口に自ら塩を塗る」行為であるため問題化すればするほど傷口が深くなる可能性があります。そして、それに耐えられなくなったとき問題化することをやめる、その限界が来るのも3〜4年だと考えます。初めは気にならなかったことが大きな問題になる、初めは無視していた些細なことが大きな問題となる、人の心は3〜4年の周期で変わるものなのかもしれません。

 そもそも、自分の活動でも一番熱心だったのは最初の3〜4年で、その頃は度々様々なところに出掛けて行き、例えば数名のハーフと呼ばれる人を集めて公開討論会を催したり、ときには一人で自身の経験を話したりもしました。しかし、そのような活動をすればするほど、人前に出れば出るほど〈疲れる〉ためにその活動も長くは続きませんでした。「もう、やめよう」、そう思うことも何度もありましたが「ここでやめたら負けだ」と思って続けて来ました。それは、ウェブサイトなどを通して報告される幼い子供たちの状況が昔と変わっていないことを知り、その状況をどうにか変えたいという思いがあったからです。

 しかし、残念なことに2010年10月、群馬県桐生市でフィリピン人を母に持つ女子児童(当時12歳)が自殺するという出来事が起きてしまいました。この出来事は小学生の自殺というだけでも衝撃的でしたが母親が他国出身者という事実はその衝撃をさらに大きくしました。得られた情報によると彼女は母親が他国出身だということを否定的に捉えており、そのことも自殺に影響していたようです。おそらく、多くの人は母親がフィリピン出身だったことがイジメの大きな原因だと主張するでしょうが、フィリピンかドイツかという区別は〈大人の視点〉であって子供の世界は違います。子供にとって自分達と〈違う〉ことが問題であって、その違いが何なのかまでは突き詰めて考えていません。先に姉が「ドイツ帰れ!」と言われたと書きましたが、おそらく桐生市の小学生は「フィリピン帰れ!」と言われていたことでしょう。「帰れ!」と罵る子らにとってはドイツもフィリピンも関係なく、ただ〈違う〉ことが問題なのです。

 さて、そのような次代を憂う心、人によっては〈青臭い正義心〉と呼ぶものの存在に加えて活動を続けられているのは〈比較の視点〉で現状を把握していたことも関係あると思います。一般に、ある社会(国家・地域)の現在を判断するには、その社会の過去の状態と、その社会が他の社会とどのように違うのかを知る必要があります。幼い頃からドイツと日本を比較し、その両方の歴史に関心を持って来た経験が自分の立場を判断する材料になったことが活動を続ける原動力になっていると考えます。例えば、日本ではガイジンと呼ばれる一方でドイツでは一人のドイツ人、もしくは一人のヨーロッパの同類だと見られます。ドイツで街を歩いても人の視線を気にすることがない経験は、〈人〉全般がもつ差別意識について考えるきっかけになっています。

 この誰にも見られないことは安心感につながったため、あるときまでは自分はドイツを〈楽園〉だと考えていましたが、トルコ系移民の問題を肌で感じたとき〈同類〉として見られることを手放しで喜ぶことは出来なくなりました。「ドイツ人の〈血〉」のみでドイツ人か否かを決めることはヒットラーが先鋭化させた「純粋な〈血〉」という思想を受け継ぐ行為だと考えます。そして、そのような〈血〉の思想に加担するわけには行かないのみならず、そのような「純粋な〈血〉」なる思想を否定することが自身の使命だと考えるようになりました。
 また、この比較は日本とドイツのみならずアメリカ(U.S.A)との間においても生じています。自身の活動はアメリカの運動(
mixed-race movement)に影響を受けており、とりわけPearl Fuyo Gaskins.1999.What are you? The voices of mixed race young people.(「あなたはナニ人?」もしくは「何者?」)と題したアメリカにおけるハーフ(mixed-race)の若い世代の声を収録した本はウェブサイトのコラム掲載方針を決める際にも参考にしました。現在、ハーフの活動を行う人々のなかでインターナショナル・スクール出身者や英語圏で教育を受けた人々に勢いがあるのは、そのようなアメリカも含めた英語圏での潮流が関係していると思います。

 ここでアメリカの例について述べると、アメリカでは免許証などの公的書類上に自身の属性(
Race)を記載することになっています。それは国勢調査でも同様で2000年までは複数のルーツを持つ人でも属性を一つに限定することを求められていました。これは日本人とドイツ人を両親もった私のような者の公的な捉え方(アイデンティティ)を日本人かドイツ人かどちらか一方に決めることを求めるものと同様で、そのようなアイデンティティの押し付けに対する反対運動がアメリカの〈当事者〉の間から沸き起こりました。そして、その運動が実って2000年の統計調査(Census 2000)から複数選択が認められるようになっています。

 なお、この運動は日本の重国籍容認運動の「両親の国籍を選ばせるのは子供にとって酷だ」という主張に似ています。しかし、アメリカの運動では国籍のように国境をまたいだ問題ではなかったために訴えが認められたのに対し重国籍容認運動は国際的な問題のため事情が違います。アメリカでの属性欄(
Racial Check Box)の選択方法変更は国内問題であったため規則の変更が可能だったようです。そして、それは些細な変更だったかもしれませんが、それによって〈自身の捉え方(アイデンティティ)〉の複数性が認められたという点で画期的な出来事だったと考えます。

 もちろん、日本とアメリカは全く異なる歴史背景があるため同じにはなりません。例えば、アメリカのハーフはアメリカ市民(国民)ですが日本でハーフと呼ばれる人々は「日本人」とは見なされないこともあります。アメリカは移民国家であり誰が「真のアメリカ人」なのかを主張することは困難ですが、現代日本は移民受入れ国家でないため「真の日本人」という発想が残っています。戦前、日本から中国東北部(旧満洲)や台湾、朝鮮半島や南北アメリカに人々が移民し、逆に台湾や朝鮮半島出身者が日本に移民していたという歴史は抹消されて「日本には昔から日本人が住んでいた」という国家観を持つ人がいると思います。アメリカと日本とを単純に比較することは出来ませんが、そのような違いはあっても同時代的で地球規模的な変化の中に日本もいるため、形は異なっても以前とは異なる状況を生むことが出来るのではないか、アメリカでの運動を参考にしながらそのようなことを考えて活動を続けて来ました。

 そのように、もともとドイツと日本を比較し、そこにハーフと呼ばれるという問題意識でアメリカ(イギリスも含む)のような英語圏の状況を知れたことが疲弊しながらも活動を続ける動機にもなっているのかもしれません。過去と現在の比較、自国と他国の比較をしてみると現在の自身の状況を比較的冷静に視ることが出来るものだと考えます。

 もっとも、この活動を続けられている最大の理由は私が「大人になっていない」からでしょう。〈大人になる〉とは言い換えれば〈諦める〉ことです。様々なことを諦めるから人は大人になる、そのようにして既存の社会構造に〈適応〉して行くものであり、それはハーフと呼ばれる人々も同様です。成長過程で鬱積した思いを吐き出しながら大人になることで既存の社会に適応して行く、近年はインターネットを介したコミュニティ活動も行われているため鬱積した気持ちを理解してくれそうな仲間を探すのには苦労しません。また、今日明日の生死に関わるような問題を抱える人々は極々少数であるためか、ハーフと呼ばれることから来る経験は、人によっては苦にならなくないのかもしれません。さらに職業上の差別もあからさまには行われないので問題意識を持つことなく〈大人になる〉ことで自らを多数の側に合わせて行くことで生きることが出来る人々が多いため継続的な活動を行う人々がいないのかもしれません。

 しかし、ここ100年以内に生じた問題を現在進行形の出来事と考え、過去を忘れて現在を生き抜こうという姿勢に自分は共鳴出来ないため、そのような性格が、この活動を続ける最大の動機になっていると思います。

おわりに

 今回、自身の経験とウェブサイトを通した活動についての文章を書くことにしたのは開設当初から質問されることのあった「なぜ、この活動をしているのか」に対する応答という意味がありました。ハーフと呼ばれるからハーフの問題提起をするのであればハーフと呼ばれる人々全員が何らかの問題提起を行っており、その運動がより大きなものとなっているでしょう。しかし、ハーフと呼ばれる人々の一部しか問題提起を行わないのは、そこにその人自身の経験が関係しているからです。それでは、細々とではあっても長く続けている理由は何かを考えてみたかったため、この機会に書いてみることにしました。

 もし、ハーフと呼ばれることに付きまとう煩わしさが悩みであって、それを理解してくれる人がいないことが悩みであるなら、共感してくれる人々を見つけることでその悩みは解決するでしょう。しかし、それ以外の様々なテーマについて考えると、そこで抱え込んだ問題は簡単には解決しません。そのため、自分の思考回路を整理するためにも、この10年の経験から考えたことを書くことにしました。

 今後、この活動がどの方向に進むかわかりませんがインターネットが存在し、サーバー企業とドメイン管理企業が存続し続ける限り
Die Kreuzungsstelle(ディー・クロイツングスシュテレ)は残して行こうと考えています。記録を残す、それがウェブサイトを継続し続ける理由でもありますので、残し続けられるだけ残して行こうと思います。

岡村兵衛

2012年9月19日 開設10周年の日に

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