自分はナニ人?

「交差点」

当ウェブサイトの名称であり、当サイトが目指している形。これは“Kreuzungsstelle”“Crossroads”「十字路口」“Carrefour”“Encrucijada”などと表すことができる。

Die Kreuzungsstelle”(ディー・クロイツングスシュテレ)を採用したのは、それほど一般的でない言葉を用いれば、検索する際に見つけやすくなると考えたためであり、その言語がサイト創設者に馴染みのあるものだったため。


「はーふ」

一般には「ハーフ」と表記される単語の、当ウェブサイトでの解釈上の表記。

「ハーフ」の語源は“half-(Japanese/など様々な単語を修飾)”であるため、「半分ずつ」の何かを受け継いだ人を指すときに用いる言葉と解され、そのような認識を好ましく思わない人もいる。しかし、この単語は「和製英語」として定着していく中で語源を越えた広い意味をもつようになったと考える。

そのため、語源を連想させるカタカナ表記ではなく、平仮名の「はーふ」(haafu)と表記する方が適切だと考えるが、便宜上、実際には当サイトでも一般の表記である「ハーフ」を用いている。

なお、もし「ハーフ」という呼称が、国籍や何らかの外見的特徴など、“他者によって判別可能な何か”を基に規定されたものであったなら、それに対して「はーふ」は心理的なもの、“他者によって垣間見ることの出来ない心的状況”にある人を指す呼称と考える。

よって、「はーふ」とは誰を指すのか、という問いより、それはどういう“状況”にある人を指すのか、という問いの方がふさわしいだろう。そして、その問いに答えるならば、それは「このサイトに掲載されている声と、自分自身の心の声がわずかでも重なるような“状況”にある人」として捉えることになる。

「ダブル」

「ハーフ」の語源“half-”に含まれている「半分」の意味合いを好まない人々によって考案された呼称で、“double”を語源としている。しかし、「ハーフ」から「ダブル」へ呼称を変更したところで、そこに孕まれている問題は何も解決していない。このテーマについてはコラム「ハーフ?ダブル?」を参照のこと。

「混血」

しばしば当ウェブサイトに多くの声が掲載される人々を指すときに用いられる概念。

「混血児」と共に一時は呼称としても用いられていたが、現在新聞などのメディアでは使われなくなって来ている。もっとも、その概念は生き延びており、対概念には「純血」がある。

そもそも人間は誰しもが「混血」であるはずだが、この概念は何らかの特徴を持つと判断された人を説明するときにのみ用いられる。これは生物学的に根拠のある概念というよりも、むしろ社会的・文化的に創られた概念だと言われている。

なお、近年「ミックス」(語源:“mixed-”)という呼称を採用する人もいるが、これは語源的には「“mixed”⇔“pure”」という構図を持っており、「混血」⇔「純血」と同様の概念を基盤にしたもので、「混血」と同じ問題性を孕んでいる。

「他国人」

現在、日本と“名付けられた島々”以外の土地から来た人々に対する呼び方として「外国人」という単語を用いることが普及しているが、この単語は“閉鎖的”な心理を表現しているという考えから当ウェブサイトでは「他国人」という単語の使用を提案している。

これまで、それらの人々を指すのに「南蛮人」「紅毛人」「異人」「外人」「外国人」などの単語が用いられて来ており、とりわけ「南蛮人」や「紅毛人」、「異人」は主に欧米出身者に用いられ、「外国人」は広く日本国外から訪れた人を指す言葉として用いられている(もっとも「外人」は欧米系の人を指すとする考え方もあり、漢字表記の「外人」ではなく「ガイジン」とカタカナ表記をする場合もある)。

かつて居住国以外の情報が乏しい時代においては、自国以外の未知の世界を指す単語として「外国」という単語が適当であったかもしれない。しかし、より多くの国々、その国々の出身者と“相互交流する時代”においては自国以外の国は既知の世界であることが常態化している。

そこで「ウチとソト(内と外)」という関係、“外から閉鎖された内の世界という心理”、心理的「鎖国」を表現する「外国」ではなく、地球上に数ある国のなかの一国ということを強調するため自国以外を「他国」、そしてそられの国の出身者を「他国人」という単語で表現することを提案するものである。

「言語(言葉)」

当サイトでは、多くの場合ある国家の「共通語」として設定されているものを指す。

しかし、「共通語(標準語)」に対して「地方語(方言)」というものが設定されているように、ひとつの国家の中にも様々な言語がある。また、その中でも世代間で用いられる言語が異なることもあるため、ある時期に用いられている言語が、過去何百年と同じ形で維持されていると考えることに無理がある。

例えば、「日本語」の古典というものを現代の人間は容易に読むことは出来ない。それを学ぶには「他国語」を学ぶような姿勢で単語や文法を身につける必要がある。これは時代・世代が異なれば言語も異なることを示した例である。

「言語(言葉)」といったとき、その境界線は国家の境界線と一致させることも出来れば、世代の間に引くことも、地域間、個々人の間に引くことも出来るため、ある「言語(言葉)」が一枚岩だと考えることは出来ない。

「文化」

当サイトでは、人と人とが関わる中で生み出されたモノを「文化」と考える。

なお、この単語を定義する際には言語(言葉)の境界と同様のことが言える。すなわち、文化の違いの境界線は、地域・世代・職場・学校・家庭・個人・国家などの間に引く事が出来るということ。

同じ国家の出身者であっても、出身地域の違い、世代の違い、学校や職場の違いによって意思の疎通が難しくなることもあるため、極言すれば「人の数だけ文化がある」と言うこともできる。

しかし、例えば「異文化交流」「多文化共生」などという言葉が用いられるとき、そこで考えられている文化の違いの基準は国家の違いであることが多い。

当ウェブサイトで「文化」という単語が用いられている場合は、この単語には様々な意味合いが含まれていることを念頭に置いている。

「バイリンガル」

“bilingual”をカタカナで表記した単語。語源の意味は二言語を併用して操れること、またその能力をもつ人。二言語以上は“multilingual”(「マルチリンガル」)」といい、そこには「バイリンガル」も含まれる(対概念は“monolingual”「モノリンガル」)。

多くの場合、基準となる言語(言葉)は国家の「共通語」として設定されているものが考えられているが、ひとつの国家内における言語の違いを基準にすれば「共通語」と「地方語(方言)」の両方を使いこなせる人を「バイリンガル」と言うことも出来る。

「バイリンガル」を話題にするとき、言葉を操る基準についても考える必要がある。例えば、「聞く・話す・読む・書く」の全てが出来ることを「言葉が操れる」ことだと考えると、次のような様々なタイプがあることになる。

@「聞く」ことが出来るが、「話し」・「読み」・「書く」ことが出来ないタイプ。
A「聞く」ことも「話す」ことも出来るが、「読み」・「書き」が出来ないタイプ。
B「聞く」ことも「読む」ことも出来るが、「話す」ことも「書く」ことも出来ないタイプ。
C「聞く」ことも「話す」ことも「読む」ことも出来るが、「書く」ことが出来ないタイプ。
D全ての能力が備わっているタイプ。

なお、聞いて理解できる場合、話すきっかけや心理的ブレーキをかけなければ話せるようになる可能性は高いと言われている。読み・書きは特別な教育(例えば学校教育)が必要なので、話されているように書く試み(「言文一致」)がなされていない言語(言葉)の場合、読み・書きを覚えるためには相当な労力を要する。



文責: 岡村 兵衛(ウェブサイト運営者) PDF ふりがな(furigana) 

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